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哲学者の誤解されてはならぬ「喜劇精神」 松本正夫

公平を標榜して党派に傍観者的であることは実は無意識的ながら一つの党派性を形成することで、それが無意識であるだけに一層度しがたい人間の壁を形づくる。むしろ歴史的な現実にあっては哲学もまた人間共同の社会的営為として党派性を免れがたいことを充分意識した上で、党派と党派との間に哲学的対話を形成すべきであろう。イデオロギーは互いに排他的にそれのみを信奉する独断性の要求からいつかは聖戦思想にゆきつくことが多いが、むしろそれならばこそかえって一層対話的に共存することが要求されている。哲学者のとりくむ問題性は実はイデオロギーないし「思想」の問題性以外のものでないから、哲学者はむしろ自ら意識して党派性を取り、問題性の中に体系を見出す「方法」の精神に則って辛抱強くこの党派そのものを対話に持ち込む用意がなくてなるまい。ソクラテスは明らかに誤解されたが、実は哲学者の誤解されてはならぬ「喜劇精神」がここにある。信念的独断的な党派を自らの哲学として心ゆくまで展開し、展開しきったところでそれを他党派との相対的対話に持ち込むこと、ここに絶対の相対化としての「諧謔」がある。けだし党派の伝統を真に自己のものと主体化し、それに独自の発展を齎すもののみが、対話の姿勢に移行できるのである。要するに喜劇精神とは偏していることの効用をしった上で自ら偏することを敢えて企図する、充分に意識された党派心であり、それは自らの公平とする無意識の党派心から生じてくる聖戦思想とはおよそうらはらである。無意識の党派心こそ無党派の意識と同様甚だ危険であり、度しがたきものである。

『存在論の諸問題』松本正夫
昭和42年 第一刷 ⅷ

2020/09/20 発表@哲学塾カン 「哲学対話とは何か」ソクラテス、プラトン、アリストテレスの場合

哲学対話とは何か

ソクラテス、プラトン、アリストテレスの場合

要旨

 ソクラテスが街角で実践した対話活動、プラトンがディアレクティケーと呼んだ哲学固有の手法、アリストテレスが取り集めた言論と探究の論理法則。アテナイの三人の哲学者のうちに問いと答えの輪郭を描き出すことで哲学対話を巡る問いを立てるとともに、哲学の歴史を対話の相のもとでみる試みの事始としてみたい。
 また、対話とは問いと答えである、哲学対話とは純粋な問いと答えである、という簡潔かつ決定的な答えを示すことにより、これまでに費やされてきた対話や哲学対話についての無駄なお喋りと権威ある言説を一掃する。

目次

1 序
1.1 端的に「哲学対話とは何か」
1.1.1 哲学対話とは何か、には多くの答えがありえ、多くを含む問いである
1.1.2 哲学とは何か+対話とは何か
1.1.3 「哲学+対話」とは何か
1.2 哲学の歴史の「哲学対話とは何か」
1.3 哲学の歴史は対話である
1.3.1 問答の連鎖によって哲学の歴史は成り立っていないか
1.3.2 哲学の始まりの時期の三人の間に対話が成り立っていないか
2 ソクラテス
2.1 対話活動を通じて問いかけたソクラテス
2.2 対話活動は神託の問いに対する答えであった
2.2.1 神託に対するソクラテスの問い
2.2.2 神託に対するソクラテスの反駁の試み
2.2.3 神託に成り代わって無知を受け入れるかどうか問う
2.2.4 神託は、神こそが真に知者であるという答えも示している
3 プラトン
3.1 ソクラテスの刑死という不可解な謎
3.2 一問一答
3.2.1 現れを破棄して実在へと向かうこと
3.2.2 論駁されることが可能な一問一答
3.3 ディアレクティケー
3.3.1 専門知とは区別されるディアレクティケー
3.3.2 魂の目を洞窟から太陽へと向け変える
3.3.3 仮説を破棄して始原に至る
4 アリストテレス
4.0.1 ソクラテス、プラトンの振り返り
4.0.2 問答にはどのようなものがどれだけあるか
4.1 カテゴリー
4.1.1 カテゴリーは問いと答えに共通なものである
4.1.2 疑問の記号「?」やイントネーション
4.1.3 「組み合わせ」によってできるものは命題だけではない。問答もである。
4.2 弁証論
4.2.1 推論
4.2.2 論証と弁証の区別
4.2.3 詭弁家、弁証家、哲学者
4.2.4 真なる前提と真偽を度外視する前提の区別
4.2.5 ソクラテスを含むプラトンからアリストテレスまでの流れ
5 エレンコス
5.1 論駁の違い
5.1.1 ソクラテスの論駁
5.1.2 プラトンの論駁
5.1.3 アリストテレスの論駁
5.2 論駁の共通点
5.3 論駁は、無知により成立するという理由で、常識とはかけ離れている
6 振り返り
6.1 ソクラテス、プラトン、アリストテレスへの振り返り
6.1.1 愚直で幼稚な感度と洞察、子どもの哲学
6.1.2 歴史を通覧するなどの普通のことは何一つやっていない
6.1.3 歴史の順序通りに論じることになったのは問いと答えにこだわった結果である
6.1.4 問いとは何か

参考URL
http://gido.ph/

哲学を必要とする時代の「哲学」とは?

哲学を必要とする時代の「哲学」は幸福である、と私は皮肉をもって述べたいのですが、そのことを再度、かつて書いた記事を少し書き換えることで、主張したいと思います。

はじめに:自己批判の欠如している読者に対する警告

はじめに言っておかねばならないのは、インタビューされた哲学者についてああだこうだと私がケチをつけているなどとは決して誤解しないように、ということでしょう。そうではなくて、聞きたいことしか聞こうとしない大衆の愚かな耳に念仏を唱えてやろうと私は思っただけなのです。ですから、以下のものを読もうと試みる奇特な方は、批判されているのが実は自分であるということに気づく、もっと奇特な能力を持っていなければなりません。これがもっとも厳密な意味での「自己批判精神」であることは、ご存知であると今後とても役に立つかもしれません。

さて、今、「そんなことが私にはできるのか?」「私は自己批判精神を持っているか」と自問し、「イチ、ニ、サン、シ、ゴ」と数えながら、自分が過去に行った具体的行為を一つでも挙げてみて、心に描いてみてください。そして、心に描くことができたらばいいのですが、もしも心に描くことができなかったならば、あなたは自己批判精神を全然持っていません。そういう人には、以下に書いていることはとてもふさわしくないものでありますので、これ以上の時間の無駄をしないためにも、読むのはここでやめておいたほうがよろしいでしょう。

問題の問題(「問題」問題)

引用1
「人間とは何か」とか「時間とは何か」とか、哲学は漠然とそんなことを考えているんじゃないんです。哲学は常に問題を考えているんです。突きつけられた問題に応答しようとしている。

引用2
デカルトは問題に答えたのです。だから哲学というのは問題に対する応答であり、その副産物として、時折、真理が発見されると考えれば良いと思います。大切なのは真理じゃなくて問題なんですね。

引用3
僕が哲学を教える時には、1人の哲学者がどういう問題にぶつかって、どういう風に葛藤して、どういう風に答えを出したかを体感してもらおうと思って授業したり本を書いたりしています。そうすると、突然、哲学が生き生きと具体的に見えてくる。

引用4
3つあげられます。1つは立憲主義の問題、国家の問題です。
2つ目は権利の問題、社会の問題です。
そして3つ目は主権の問題です。

「問題」という言葉がこれほど多くの意味でこうも安易に用いられるのに、驚きませんでしょうか。いい加減、すべての哲学者が、問題ってなんのことなのか、反省すべきであろうと、私は思います。いいかげん、問題を問題にすべきではないでしょうか。

「問題」にも「問題」があるということを忘れてしまって、哲学なんてどうしてできるでしょう? 「問題」にある問題をいとも簡単に超克してしまうのが、哲学者なのでしょうか?

「一人の哲学者がどういう問題にぶつかって、どういう風に葛藤して、どういう風に答えを出したか」

なんてもう、あまりに聞き飽きたことではないでしょうか?この種の言説を聞き足りていない人が、いるとは私には思われません。

哲学者の固有の「問題」とか、その時代の「問題」とか、こうした諸々の「問題」、ということがまさに問題ではないか、とこれまで思わなかったことの方があまりに不思議になってきませんでしょうか?不思議なってこないのでしょうね、だって、私が問題のことを問題にしていると言ってもどうも全然ほとんど誰にも通じていないようだからです。それが通じないんだから、やっぱり問題の問題を易々と乗り越えて知ったつもりになっているのではないか?と疑わざるをえません。いや、これこそが、古代の哲学が無知を問題とすることの証拠なのでしょうね。そのことを、自問せざるをえません。

パレーシアに関する誤り

引用5
誰もしていなくても、おかしいと思ったら、おかしいと言う。間違っていることを目にしたら、間違っていると声を上げる。それが勇気です。古代ギリシアには「パレーシア」という言葉がありました。これは思っていることを素直に口にするという意味なんですが、今はパレーシアが本当に行われなくなっている。義の心と言ってもいいのですが、勇気を伴う実践の必要性を訴えたいと思っています。

フーコー(は「問題」の、歴史における構成を問題にした人としてあまりに有名です)の著作を読んだことのある人ならば、今はパレーシアが行われ過ぎている、とも言いたくなるはずです。例えば『真理とディスクール 〜パレーシア講義〜』の冒頭近く(p12)では二種類のパレーシアがあったことが紹介され、貶めた意味でも使われることがあると指摘されているからです。パレーシアは、その悪い意味で、思ったことを何でも口にするという「お喋り」にちかいニュアンスをもつこともあったと、その本の初めに言われているのです。そして、『真理の勇気』p14でも次のようにはっきり言われている。

ミシェル・フーコー『真理の勇気』 慎改康之訳 筑摩書房p14
しかし、ただちにはっきりさせておかねばならないのは、このパレーシアという語が、二つの意味で用いられうるということです。私が思うに、アリストパネスにおいて初めてこの語の悪い意味が見いだされ、次いでそれがキリスト教の文献に至るまで非常に一般的に見られるようになります。悪い意味で用いられるとき、パレーシアは、確かにすべてを語ることではあるけれど、ただし好き勝手なことを何でも語ること(頭に浮かんだこと、自分が弁護したい主張にとって有用でありうること、語る者を突き動かす情念ないし利害に役立ちうること、を好き勝手に何でも語ること)を意味します。パレーシアステースはそのとき、おしゃべりをやめない者、つまり、自制することのできない者、あるいはいずれにせよ自らの弁論を合理性の原則や真理の原則に準拠させることのできない者となり、そのような者として現れます。

『真理の勇気』p14

どうして、このようなパレーシアの悪い意味での使われ方を無視して、いい意味での使い方を取り上げるのでしょうか?思うに哲学が役に立つとしたら、ものごとの良い面だけに盲目的になってしまうところを避け、悪い面をも同程度に理解するという点だと私は、少しは思います。それにもかかわらず、パレーシアというのが、以下にもよい意味しかなかったかのように言うのは、哲学が悪いことの役に立っているように、私には思われます。そういう危機感は、哲学だけが固有に育てることのできるものであると思うのですが、どうでしょうか。

役に立つのがその程度であるとしたら、何故それを「哲学」というのか。

哲学を教えていていつも思いますけれど、難しいテキストを読んで、骨子をパッと理解して、そこで使われている概念を使いながら話をしたり文章を書いたりする訓練が、いわゆる仕事をする上で役に立たないわけないんですね。なぜそんなことも分からないのか。

https://bunshun.jp/articles/-/3228?page=4

「なぜそんなことも分からないのか」とはおそらくは反語であろうが、しかし、これに答えることは簡単であるように思われる。難しいテキストは哲学以外にも存在するからであり、それらの「難しいテキストを読んで、骨子をパッと理解して、そこで使われる概念を使いながら話をしたり文章を書いたりする訓練」は哲学でなくても、文学でも、科学でも、数学でも、法学でも、心理学でも、できる。とりわけ哲学の分野だけでしか、そんな訓練ができないわけがない。そんなことよりも、哲学をしていると、問題を見つけてしまう能力が開発され、問題を人々に伝えることがいわゆる仕事ではとても厄介なこととなり、仕事に役に立たない程度では済まされない。仕事では、そういうことが嫌われさえするからである。仕事をしながら、哲学はここではやってはいけない、という経験がないから、「なぜそんなことも分からないのか」という問いになるのでしょうが、哲学を押し殺しながら仕事している身としては、哲学が役に立たないことくらい、「なぜそんなことも分からないのか」と問いたくなります。

哲学のない時代の「哲学」はどうなのか?哲学を必要とする時代の「哲学」はもっとどうなのか?

今の時代だけでなく永遠に必要であろう徳だとか勇気だとかを、時代や民衆の必要に応じて切り売りできる時代がきたとは哲学にとってなんと幸福な時代でしょうか?

哲学のない時代の「哲学」は不幸だろうか?むしろ幸福なのではあるまいか?哲学を必要とする時代の「哲学」はもっと不幸だろうか?もっともっと幸福ではなのではありませんでしょうか?

ディオゲネスについて、ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』からの引用

ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝(中)』岩波文庫

 (第6巻 第2章)

ディオゲネスとプラトン

p131-133

(二五)  またあるとき、プラトンが贅沢なご馳走の並んだ食事の席で、オリーブの実にだけ手をつけたのを彼は目にして、「賢者であるあなたがシケリアへ渡航されたのは、まさにこういう料理が目あてであったのに、いまこうしてたくさんの料理が目の前に並んでいるときには、あなたがこれを味わおうとされないのはどうしたわけかね」と訊いた。そこでプラトン が、「いや、神々にかけて、ディオゲネスよ、あの地でも、ぼくはたいていの場合は、オリーブやそういったものを食べて過していたんだよ」と答えると、「それならなぜ、シュラクサイくんだりまで出かけて行く必要があったのかね。それとも、あの頃には、アッチカの土地にはオリーブはできなかったというわけかね」と彼は言い返したのであった。ただし、パボリノスは『歴史研究雑録集』のなかで、これはアリスティッポスの言ったことだとしている。 

 また別のとき、彼が乾し無花果を食べていたら、プラトンに出会ったので、「あなたに分け てあげてもいいよ」と言った。そこでプラトンがそれを取って食べると、「分けてあげるとは 言ったけれど、全部食べてもいいとは言わなかったよ」と彼は言ったのだった。

 (二六) ある日、プラトンが、ディオニュシオス(王) のところからやって来た友人たちを自分の 家に招待していたとき、ディオゲネスは敷いてあった絨緞を踏みつけて廻りながら、「プラトンの虚飾を踏みつけてやっているのだ」と言った。これに対してプラトンは、「ディオゲネスよ、君は見栄を張っていないと見せることによって、かえって、どれほど多くの見栄を人前にさらけ出していることか」と応じた。 ただし、ある人たちの伝えるところでは、ディオゲネスが言ったのは、「プラトンの見栄を踏みつけてやっているのだ」というのであったが、これに対してプラトンは、「いかにも、ディオゲネスよ、君はまた別の見栄でもってそうしているのだ」 と応じた、ということになっている。しかしながら、ソティオン が(『哲学者伝』の)第四巻のなかで述べているところによると、いまの言葉は、このキュニコス派の哲学者が(第三者に対 してではなく) プラトンその人に向かって直接に言ったのだということになっている。 

 ディオゲネスがあるとき、プラトンにぶどう酒を所望し、同時にまた乾し無花果もねだった。 そこでプラトンが酒甕をまるごと送ってやったら、「君は、二たす二はいくらかと聞かれた場合に、二十と答えるだろうか。それと同じで、君は所望されたものに応じて与えることもしな ければ、訊ねられたことに応じて答えることもしないのだ」というのが彼の返事であった。そ れでプラトンは彼のことを、とどまることを知らぬお喋りだとあざ笑ったのであった。 (二七) ギリシアのどこですぐれた(勇気のある)人たちを見かけたかと訊ねられたとき、「すぐ れた人たちはどこにも。だが、すぐれた子供たちなら、ラケダイモ ン(スパルタ)で見たよ」と 彼は答えた。 

不思議がるディオゲネス

 あるとき、彼が真剣な調子で話をしているのに、誰ひとり近づいて来ないので、彼は鼻歌ま じりにしゃべり始めた。すると、人びとが大勢集まってきたので、くだらぬお喋りには真剣に なって聞きに来るのに、真面目な話は軽蔑してのろのろとやって来るといって、彼はその人た 

ちを咎めた。 

 また、競走の際には、隣りの人を肘で突いたり足で蹴ったりして、人びとは互いに競い合う のに、立派な善い人間になることについては、誰ひとり競い合おうとする者はいないと彼は言 っていた。 

 また彼は、文献学者がオデュッセウスの落度はいろいろと探し求めているのに、自分自身の それには無知のままでいることを不思議がっていた。 

 さらに、音楽家がリュラ琴の絃は調子を合わせるのに、自分の魂の状態は不調和なままにし ていることに彼は驚いていた。

  (二八) さらにまた、数学者たち(天文学者でもある)が、太陽や月には眼を向けるけれど、自分の足下にある事柄は見のがしていることや、弁論家たちが正義について論ずるのにはきわめて熱心だけれども、これを少しも実行していないこと、いや、それだけでなく、お金好きの人たちがお金をけなしているくせに、これを過度にほしがっていることに、彼は驚いていた。 

 また、財産よりまさっているからという理由で正しい人たちを称賛しながら、他方では、 第大きな財を蓄えている人びとを羨んでいる連中を、彼は非難していた。 

 また、健康であるようにと神々に犠牲を捧げておきながら、まさにその犠牲式のさなかに、 健康に反するほどのご馳走を食べること、彼をいらだたせていたことであった。 

中指を突き出すディオゲネス

p138

 またあるとき、他国の人たちがデモステネスに会いたがっていると、彼は中指をつき出して 「ほら、これがアテナイ人たちを煽動している男だ」と言った。

白昼にランプに火をともすディオゲネス

p144

(四一) 彼は白昼にランプに火をともして、「ぼくは人間を探しているのだ」と言った。

明るい秘密

明るい秘密ということがある。通常、秘密は暗いものと考えられているが、それはひとが公にできない、他人に知られたくない事実を隠しているからである。隠されている秘密の事実は、それが事実として皆の前に明らかにされる なら、直ちに誰にでも明白な事実として隠れる術もなく白日のもとに露呈されるであろう。けれども明るい秘密とい うのは、事実としてはなんら隠れるところもなく公共の地平に晒され隈なく露呈されていながら、目の前にある事柄 に人びとが気がつかない、といういみでの秘密である。 

哲学が本来明るい秘密の探究であったことは、プラトン『ソピスト』254a8-10 「(ソピストがその棲む場所の暗さのゆえに捉え難いのに対して) 哲学者の方は、ほんとうに有るものをいつも言葉の働きを通して見てゆく側に身を寄せているので、今度はその場所の明るさゆえに、見極めることが決して容易ではない」参照。またヘラクレイトス『断片』1「(根拠を証す) 言葉は (いまここに、わたしが語り明かす通りに)いつでもこれとして有るのに、人びとは初めてそれを聞いた後も、聞く前と同様に、ちっとも理解しないままになっている。……(わたしはことを分けて話しているのに)ほかの人びとは、自分たちが眠りながら何をしたのか覚えていないと同様に、目を醒ましていながらも何をしているのか蛇っていない」も参照(1)。  早い話が、ソクラテスやキリストが現にわれわれの傍らに立ったとしても、ドストエフスキーの「大都問官たち」(『カラマゾフの兄弟』)と同様にわれわれには目の前のこの人が何であるか、どう取り扱ったらよいか、判断を絶するで あろう。しかし明るい秘密はなにもこうしたショッキングな例外の場合だけではない。これらの例でも、秘密をもたらしたのは、この人の人物としての特異性の問題よりも(むろん特異性の問題もそれはそれで論じられねばならない にしても)、むしろこの人が〈わたし〉にとって他人である、という、しごく当たり前の、どの個人に対してでも成立している関係なのである。

モイラ言語  井上忠 p 77 https://www.amazon.co.jp/dp/4130100548/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_OWLlFb7B4FNKX 

対話への誘い 2

承前 

批判したり同調したりするだけでなく、遠近を正確に見極めること

発表の題材はアキナスの「他者への無限責任」です。実は私は「他者への理解が根底の所で閉ざされているのは何故なのか。それにも関わらずどうしてそのような他者に対して責任を私が負わねばならないのか。」という問いをもっています。そこを中心に議論・対話をしたいのです。


というのも、私のこれまでの経験や性格から思うところがあり、やはり「他者」というものは考えれば考えるほど異様で、全く自分とは別の「意識存在」であり、無視することができず、何故かいつも自分に迫って来ている。そのような「絶対他者」の前で、自分はなすすべもなく、翻弄され、そしていかなる時でも「応答」をしなければいけない。これは一体どういうことなのか。…

助言をさせていただくなどおこがましい限りなのですが、以上の二つの段落で述べられようとしたことを、より一層明確に言語化して問いを提出できれば、大変素晴らしい対話ができるでしょう。そのうえで、私を含む参加者に、自分の問いを言葉を尽くして説明するのに、一つの問いに絞ることができれば、哲学的にとても有益になることと私は信じています。

「一層明確に言語化して問いを提出できれば」について付け加えます。他の参加者も、私も、ぜひとも聞きたいと思うのは次のことであるはずです。それは根尾井さんが「アキナスが言っていることと違う」と断定し批判したり、アキナスに同調して自分の問いを提出したりすることで終わることなく、アキナスが言っていることを気にかけながら、アキナスと自分の問いはどれほど近くて遠いのかを測定しようとしているか、ということです。アキナスの主張や用語を習得するのは凡庸な一般人には難しく、哲学書を読めるようになっただけで哲学をしているつもりになる愚かな知者たちはたくさんいますが、そんなのは愚の骨頂です。確かに、哲学を始めたばかりの頃は哲学書や哲学説を理解するのに手一杯であるとしても、自分で哲学をし続けるためには、それらの用語や論理に習熟するのは単なる手段の獲得に過ぎないのであって、それをもって、自分の問いを表現できるようにならねばなりません。自分の問いを表現できるようになって、ようやく道の半ばというくらいです。そのことはぜひ知っておいてもらいたい。自分の問いを表現したあとでも、まだまだ長い道を歩まねばなりませんが、哲学まがいの思想や哲学研究にならないためには、はじめから自分の問いを忘れない訓練をしなければなりません。このことを、私は、何度でも強調します。逆に言えば、たとえ哲学を初めに志したとしても、実に多くの人がその道中で自分固有の問いを忘れ脇道に逸れた挙句戻ってくることがない。私もまたその一人とならないよう、常に精進しているところです。

知的安全性(セーフティ)に対する正しい理解

林さんの言われたことから、最も大切であろうと感じたのは、議論が白熱したときに、信念や問いを貫き通したことがない私の自信のなさからくる「恐怖」が「相手に議論で勝とう」「ここは誤魔化しておこう」というものに容易に移行しないように、「私の問いは誤解されていないだろうか」と常に気に留めておくことを怠らないようにする、ということでした。

「他者に理解されない」ということは「恐怖」に直結するのではなく、逆に自分の問いを忌憚なくぶつけることができるために問いを再考できる「安心」ともなりうる。そのように林さんの言っていることを理解しました。実践できるようになるにはとても時間がかかりそうですけれど。とはいえ、そのように考えると「信念」をもって「自分の問い」にこだわることができそうな気もします。

この箇所を私が読む限り、根尾井さんは、哲学対話や哲学実践の分野でしばしば問題となる「知的安全性(インテレクチュアル・セーフティ)」について正しく理解している数少ない人の一人のように思われ、私は非常に嬉しく感じました。というのも哲学対話における「知的安全性」は哲学カフェなどを主催したり参加したりしている多くの人々に無自覚に誤解され続け、もはや手のつけられないことになっているからです。相手を否定せずに優しく問いかけるのが哲学対話であるというようなイメージは、こうした誤解の深さと広さを示すものです。

哲学の問いが論理と直知を通じてある特殊な理性にしか宿らないのは何故か

ディスコミュニケーションが起こる理由として、「哲学の問いが論理と直知を通じてある特殊な理性にしか宿らないことにある、というものです。」とおっしゃってましたが、ここの意味をもう少し詳しく教えていただけますでしょうか。

 誤解を恐れても言わねばならないのは、次のことかもしれません。
 まず、哲学の問いが論理を通じて理性に宿る、というのは容易に理解されるのではないでしょうか。一見何らの具体性も伴わない抽象的な言語を用いながら、こと細かに事象を描写したりあらゆる反論に対して詳細に批判や検討をしながら再反論したり、といったことを通じて哲学の問いは理解される。つまり緻密な言語と論理でもって問いを表現するという、言語や論の運びに対する執念深さがないと哲学の問いは実らない。たとえば「死とは何か?」という同じ問いを、文学では詩的比喩を用いて、宗教では救済を求める信仰心でもって、表現するわけですが、哲学はそのどれとも違って、厳密な思考によってあらゆる可能性を尽くして検討し議論する。文学も宗教も同じように理性は必要でしょうが、哲学に用いられる理性は抽象的でありながらも緻密で厳格という点が特殊なのです。

 しかしながら、厳密な論理でもって理詰めで誰にでも分かってもらえるのが哲学的問いなのかと言えば、最終的にはそうではない。哲学の問いはまことに驚きから始まり、終わりには言語を絶する謎が待っているからです。ここでも再び「死とは何か」との問いを取り上げると、その問いを問う哲学者にとっては、子どものときから片時も頭を離れず身に染み付いたものであって直に知っているもので、それにはいかなる理詰めの説得など必要ありません。さらに、死を言語によって知り尽くしたとしても死の間際まで死が真に何であるかは謎であることなど始めから知っている。これが哲学の問いが直知(nous)を通じて理性に宿る、ということで私が言わんとしたことです。このように、有無を言わさぬ驚くべき謎を捉えて離さない理性が、特殊であるのはいうまでもないことでしょう。

 理詰めで考えることに慣れた人、たとえば科学者が、ディスコミュニケーションがなぜ起こるのかを理解するには、哲学の問いが驚きから始まるというのを知らねばなりません。逆に芸術家や宗教家のように直観の強い人は、哲学の問いが言語と論理によってはじめて正確にとらえうることを知ってもらう必要があるでしょう。この二つを哲学の問いに対する論理的理解と直観的理解と言うことができるでしょうが、哲学の問いを持つにはどちらか一つだけではダメで、だからといってどちらとも揃えているだけで済むというでもなく、二つを合わせ持ちながら精確に使い分けることができなければならない。そのような能力を生得的に持ち合わせていることが稀であるのは想像に難くないでしょうが、さらにその上、その能力を常に発揮し続ける実践を怠ってはならない。とすれば、このことがある特殊な理性にしか起こらないのは想像に難くないのではないでしょうか。

 ディスコミュニケーションが起こる原因の一つは、議題に挙がっている哲学的問いに対して、先に述べた二つの理解が交錯することにあることは分かってもらえるのではないかと思います。つまり、ある人に対しては直観的理解が必要なのに論理的理解を促す説明を与えてしまっている。あるいは、論理的理解を欲している人に対して直観的理解を与える事例を示す。このような交錯が起こってはいるのですが、その交錯を見極めるに際して再び直感的理解と論理的理解とが生じているので、安易に着地点を求めたり、妥協したりしてはいけない、というわけです。

 おっと、ほんの一文を説明するのに回りくどい説明を与えていることに今更気づきました。こうした饒舌は非難さるべきもので、お返事をするのに遅くなる理由にもなってしまっていたのでした。その点を反省しつつ、まずは上のように述べることでお返事をとりあえずは差し上げたいと思います。

哲学は役に立たない。哲学者でさえ、真理には到達しない。

以上のツイートを踏まえつつ、「哲学は役に立つか?」の問いについて考えるきっかけを与えようと思う。

哲学が人類を「幸福にしない」これだけの理由
大学から哲学科が消えるのは由々しき事態か
中島 義道 : 哲学者
http://toyokeizai.net/articles/-/124180

二つの重要なことを、少し書き換えることで、主張を示してみたい。

真理は真理

哲学においては、たとえ人類が滅びようが、劣化しようが、不幸になろうが、真理は真理なのです。しかも、この場合の「真理」とは、科学的真理のようにいわゆる客観的(間主観的)なものではない。哲学者1人ひとりが誠実かつ真剣に思考し続けて到達したこと「すべて」です。それを超えた「客観的」な知などない。

https://toyokeizai.net/articles/-/124180?page=2

哲学においては、たとえ人類が生きながらえようが、繁栄しようが、幸福になろうが、真理は真理なのです。しかも、この場合の「真理」とは、宗教的真理のようにいわゆる主観的(間主観的)なものではない。哲学者全てが誠実かつ真剣に思考し続けても到達しなかったことの「ひとつひとつ」です。そうでない「哲学的」な真理などない。

哲学的真理は、具体的に制作することによって会得するほかはない

哲学的真理は、むしろ「芸術的卓越性」に近く、鑑賞することによってではなく、具体的に制作することによって会得するほかはない。芸術作品を鑑賞するだけでもある種の能力は開花しますが、それは芸術評論家の目にすぎません。

https://toyokeizai.net/articles/-/124180?page=3

哲学的真理は、もっぱら「芸術的遊戯性」であり、鑑賞することと同時に、具体的に制作することによって実現しているほかはない。哲学作品は鑑賞するだけでもある種の能力の現実化であるし、それは哲学研究者の目には見えないものです。

補足

A  芸術作品を鑑賞するときにも制作するときにも、その作品と合一するような体験のことを念頭に置いている。そのことを「遊戯」と私は呼ぶ。「合一」とは、鑑賞と鑑賞作品とが不可分であること、制作と制作品とが不可分であること、鑑賞も制作も作品も不可分であることと言い換えてもよい。

B 「会得」とされている芸術的卓越性について、私は次のような見解をとる。卓越性をたとえ存分に身につけていたとしても、傑作を残し続けるということは人間である限りありえない。芸術作品を制作する場合には、ある時は傑作を、ある時には駄作を、生み出すということがあるのが必然である。同様にまた、鑑賞力もある時期には敏感でありある時期には鈍感である。そして鑑賞力も制作力も十全であるようなときの、制作しかつ鑑賞している最中だけが、「真に」芸術的卓越性が発揮されている、ということなのである。私は哲学的真理をこのように非常に狭く理解する。単純に言えば、会得する哲学的卓越性は、場合によっては芸術的卓越性より以上に、錆付きやすいのである。

C 哲学作品が鑑賞するだけでもある種の能力の現実化であるというのは、哲学研究者はそもそも哲学作品など見ていない、ということから容易に理解されるだろう。哲学研究者は、「哲学」を名乗るほど「哲学」のことは知らず、単にある人物の思想や、流行やら伝統的なものやらの問題を自分で立法することなくただ単に行き当たりばったりに考えているだけだからである。そういうのは哲学研究ではない。哲学研究なら、哲学一般の研究のことだからである。プラトン研究やアリストテレス研究やカント研究やヘーゲル研究が哲学研究であるはずがない。哲学に対して無礼極まりない。プラトンやアリストテレスにとって哲学は重要であっても、哲学にとって重要なのはプラトンやアリストテレスのような個々の人物ではないし、イデア論やカテゴリー論の個々の問題でもない。哲学研究というくらいなら、哲学の本質を研究してもらいたいものだ。哲学そのものの。

哲学に「血税」を使う必要などない

哲学など何の役にも立たないのですから、それに血税を使うのはもったいない。もう1度言いますが、官立の大学は知的遺産管財人養成機関に衣替えするか、廃止するかを選択すべきでしょう。そして私立大学は、「哲学科」などという偽りの看板は取り下げ、「比較文学科」「人間学科」「コミュニケーション学科」「環境学科」といった安直な名称に切り変えて生き続けるか、それができなければ即刻廃止すべきでしょう。

こうして、少なくともわが国民が哲学の真の姿を認めて、その表面的な美名をひっぺがし、哲学はまったく役に立たず、自他の幸福を望むこととは無関係であり、反社会的で、危険で、不健全なもの、という点で認識が一致し、それにもかかわらず哲学をしなければ死んでしまう全人口の1パーセント未満の人のためにのみ哲学を学ぶ「真の場所」を設置すること。これはまことに健全なことだと思いますが、いかがでしょうか?

https://toyokeizai.net/articles/-/124180?page=3

哲学について、よく知らない人が役に立つとか素晴らしいものだ、とかいうのは、何か不健康なものを感じる。

哲学対話は簡単か?

哲学や対話は、子どもにとっては簡単であるが、大人にとっては難解である。このことを言い続けているのだが、どうも伝わっていないのであり、それを伝えるのによい素材記事を見つけた。

上の記事を引用しながら、それに対してコメントすることで、よく理解してもらえよう。

1 哲学は難解でわたしたちの日常とは縁がないのはもっともである

まず、“哲学”と聞いて何を思い浮かべますか? 「難解」「変わり者の学問」「実社会では役に立たない」「成績に結びつかない」……、このように、わたしたちの日常とはあまり縁がないように感じている方も多いのではないでしょうか。たしかに、大学で専門的に学ぶいわゆる“学問としての哲学”には、そのようなイメージがありますね。


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「哲学は難解」であるというイメージは全く間違っていない。全く正しい。これに対して、「哲学対話」は、簡単だとか容易だとかいうイメージをもっている人は、自分のイメージを改めた方がよい。哲学対話は、哲学と同じくらい難しい。

さて、引用で言われているように、哲学は「わたしたちの日常とはあまり縁がない」のも本当だ。ここで問わなければならないのは、なぜこの「難しい」というイメージを払拭して人々にとって簡単で分かりやすいものとされた哲学が、子どもでもできるとか誰でもできるとかいうふうに言われるのか、である。しかも、それがどうして常日頃から言われるようになったのか、である。

子どもが、「変わり者の学問」をじつはしており、「難解」なことを考えており、わたしたちの日常とはほとんど縁のない世界に住んでいる、とある。それは何か悪いことだろうか。子どもの哲学とはそういうものだというのが、どうしていけないのか。

子どもは変わり者の哲学ができるし、難解な哲学もできるのだ。この価値は計り知れない。にもかかわらず、その価値が認められないまま、哲学は簡単だとかいう言説が広まってしまうことに、何か不穏なものを感じないだろうか。

この種の、子どもの哲学や哲学対話の大バーゲンには強烈な違和感を覚えるのは私だけか?

偽物や訳あり商品や型落ちモデルや中古品が安売りされているというのではなくて、純正の正規品が、ただ同然で売りに出されているのだ。本物のダイヤモンドが百円ショップに並べられ、本当に百円で売られているようなものなのだ。凡人にはそれが盗品であることはわからないかもしれないが、見る人が見たら、もうこれは大事件なのだ。

先日指摘したことは、以上のことと全く無関係ではない。何の反省もなく、つい「よいこと」が語られ始めてしまうのだ。そのことについて、警戒心のない人が多すぎるので、怒ってでも伝えようという気にならざるをえない。


2 哲学はシンプルだから難しい

しかし、ここでご紹介する『こども哲学』は、哲学対話と呼ばれる対話活動を意味します。それは決して難しいことではなく、いくつかのシンプルなルールを守っていれば、「どんな発言もOK」といった自由なものです。

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いくつかのシンプルなルールを守ることは相当難しい。それがどこにも言われていないのはどうしてなのだろうか。「決して難しいことではなく」と言われているが、私なら、「決して簡単なことではなく」と注意を促すところである。

そして、「どんな発言もOK」とは私は決して言わないだろう。「本当のことを言おうとしたものなら、どんな発言もOK」というふうに言うであろう。どんな発言もOKなら嘘の発言もOKということになろう。そうではないとしたら、やはりその条件の方を強調すべきであるのに、人聞きのよい「どんな発言もOK」ばかりが取り上げられている。このようなことは、哲学対話のもたらす弊害になりうることがいい加減に周知されてもよい。

3 哲学対話はディベートの根拠を問う

哲学対話では、ディベートのように相手を言い負かすのではなく、いろいろな考えを認めることを重視します。そして、対話を深めるためにも「みんな考えが違って面白いね」で終わらず、相手の意見でわからないところがあれば「どうして? どんなときにそう思うの?」など、どんどん質問しましょう。

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ディベートのように相手を言い負かすのではなく、と言われているが、言い負かすとか言い負かさないとかいうのがどういうことであるのかを、よく考える必要がある。言い負かそうとしているのか、言い負かそうとしていないのか、を問い返し、よく考えることができるというのが、哲学対話がこの上なく力を発揮するところなのだ。

哲学的議論はディベートによっては打ち負かされないし、だからといって打ち勝つようなものでもない。そのことを知らないで、相手を打ち負かさないでくださいとか打ち勝とうとしてはだめだとか言っても仕方がない。真に哲学対話であるならばこそ、相手を打ち負かそうとしたっり勝とうとしたりすれば、なぜそのようなことになったのかを問いうるはずである。

哲学対話はディベートと相容れないものなのではなくて、むしろディベートの根本を問いたずねるという点で異なる。つまり徹底的に根拠を問い尋ねる。徹底的に根拠を問い求めるというポイントを見逃したまま、相手に勝とうとしてはいけないとか言ってしまったら、哲学対話は骨抜きにされてしまうだろう。

4 大人が”受け止める“の発想が間違っている

まず、『こども哲学』の入り口は“受け止めること”です。子どもが言っていること、やっていることの奥にある、本当に伝えようとしていることは何かな? どうしてその表現になったのかな? ということに、保護者が思いを巡らせましょう。

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確かにその通りかもしれない。けれども、「受け止める」ということが保護者(大人)に本当にできるだろうか。私の経験からしても、他の対話の実践者から聞くところによっても、ほとんどの大人は子どもの言うことをじっとして聞いていることさえできない。子どもが言っていることを受け止めるのは、全然簡単ではないのだ。じっとしていない子どもをじっと聞くのは、大人には耐え難いことなのである。「じっとしていなさい」とは、子どもどころか大人にももっとよく響かねばならない言葉であると、哲学対話をするにつれ痛感することであろう。むしろ大人の方の鈍重な理解力を、新鮮な洞察を繰り出し続ける子供の方に受け止めてもらわねばならないのだ。

そして、「子どもが言っていること、やっていることの奥にある」の「奥にある」ことに大人は思いを巡らしてはならない。子どもが言っていることそのことを、たとえば言い間違いや独特の言い回しを十分に堪能するべきだ。。「言っていること、やっていること」そのものをよく観察する必要があるのであり、その奥に思いを巡らそうなどとはしなくてよい。「子どもが言っていること、やっていること」を大人は普段全然見ていないのである。そのことに気付くことが優先されねばならない。それはとりもなおさず、大人の無知の自覚である。それが何よりも優先されるべきだろう。

5 大人は意外と物事を全然考えていない

哲学対話は、今すぐにでも始められるとても簡単なコミュニケーションです。子どもは意外と物事をしっかりと考えているものです。対話を進めていくうちに、「本当はこんな風に考えていたの!?」と驚かされることになるでしょう。ぜひ親子で挑戦してみてくださいね。

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ここまで何度も述べてきたことから、大人にとっては、「哲学対話は、今すぐにでも始められるとても簡単なコミュニケーション」だというのは全くの間違いであり、大嘘であることは、よく分かってもらえたことであろう。大人にとってと子どもにとってとでは、哲学対話は難易度が全く逆の、不思議なものなのだ。

子どもにとっては確かに、哲学対話は簡単である。けれども、大人にとっては全くそうではない。書かれているルールを守るだけでも大変難しいのだから。その難しさも自覚せずに、「今すぐにでも」できると思ってしまう大人は、哲学対話にとって有害である。これこそまずもって改善されるべきだ。

「子どもは意外と物事をしっかりと考えているもの」という大人目線の無自覚な断定を、いい加減に改めなければならない。出会うこと全てが新しく何も慣れていない子どもこそは物事を考えざるを得ない状況に置かれているのであり、反対に大人は、因習や惰性に任せて「意外にも」物事を全然考えてなんかいないのである。考えていると思っているだけなのだから。だから、大人は「こんなことも考えていなかったのか」と驚くはずである。「子どもが意外にも云々」などと思っている限りは決してセイフティと言っているもので実現したいものが到来することにはならないということはよく知るべきである。

対話への誘い

夢でのメール

 不思議な夢を見た。私は誰だか知らない哲学の師を慕っており、対話を在野で研究している。私の師は哲学教室アレクサンドリアを主宰しており、哲学の専門家たちが、どこか殺伐とした雰囲気のその教室で毎回講義を行なっている。あまり議論や対話の場は設けられないことに、私は何も疑問を感じていない。

 私はその生徒に過ぎないというのに、師はある日、哲学を志す或る新入りの生徒「根尾井さん」に対し、私に哲学対話について尋ねるように言ったという。そういうわけで私は根尾井さんから、哲学教室アレクサンドリアで哲学の発表し、対話をするにはどうしたらいいのか、という相談のメールをもらった。私は師を忖度することもせず、そのメールに返信をしたという夢であった。

 夢であったとはいえ、考えてみたところそれが現実であったとしてもおかしくはない。そこで、そのメールへの返答を、以下に記しておくことにする。

 根尾井さん

 私は根尾井さんがどのような方かを存じ上げませんので、無礼に当たる言葉遣いや的外れな指摘など、多くの不備があることと思います。どうかお許しいただけますようお願いします。

 率直に申し上げますと、ある意味では私が哲学的生の全てを懸けている哲学対話について、短いメールでは述べることはできません。そこで、根尾井さんが発表を行い対話を試みようとしている哲学教室アレクサンドリアという場について、多少なりとも事情を知っている私が、その場で行われる対話に関しての心構え、言い換えればその場を最大限活かして如何に自らが哲学することができるか、をお伝えしようと思います。

自分の問いにこだわる

巷での哲学対話や哲学カフェに何度か参加したことがありますが、議論というより、相手を否定しないで、できるだけ優しく問いかける、といったような対話の実践が行われることがほとんどでした。専門家による講義とそれに対する殺伐とした質疑応答が繰り返されるこの教室の環境に慣れていた私としては、哲学対話や哲学カフェは何か物足りずそれでいいのか?」とずっ終始違和感を感じていました。

 哲学対話や哲学カフェにも様々なものがありますが、ともかく、このたび根尾井さんが発表される場はそれらとは全く異なる場と考えて間違いありません。巷での哲学カフェや対話については一度忘れ、哲学教室アレクサンドリアで対話を行うということを強く意識するとよいと思います。根尾井さんの発表に参加される人々は、この教室の主宰者をはじめとする、ある意味では最も哲学的な人々であるはずです。そういった環境は滅多にありません。そういう場では、「相手を否定せず、優しく問いかける」ことは全く度外視されますし、論理の弱点や盲点を指摘され、自分の根本的な信念は覆され、しつこくねちねち問い詰められます。それがこの教室のいわば流儀ですが、このような流儀は別に何らの重要なものではなく、最初は驚かれるかもしれませんが、二度三度体験すればそんなことは本質ではなく、ただ単に哲学者というのが下品な人の集まりだということがわかるだけです。二三度そういう輩たちを相手にすれば慣れてしまいますので気にすることはありません。根尾井さんが哲学者ごときに恐れをなす方ではないことを願うばかりですが、哲学者などというのはひねくれの塊のようなものですので、それくらいは知っておくとよいかもしれません。

 話が逸れましたが、とりわけて大切なことは、あなたが発表者である限り、どんなに何を言われようとも、ありとあらゆる手を尽くし、全ての知識と言葉を総動員して、自らの問いをその場にいる人々に理解させるよう努めることです。自らの問いを目の前の人々に吟味してもらうこと、それに尽きます。いろんな人からいろんなことを言われるでしょうが、根尾井さんの問いが明晰であればあるほど、ほとんどの反論や指摘や根本的な誤解に基づくものだということが段々と分かってくるのではないかと思います。

 こうした次第ですので、相手に言われたことを真摯に受け取ってよく理解することはもちろん必要ですが、それよりも、あえて自分の問いだけは譲らないで、手を替え品を替え説明し、執拗に自分の問いを理解してもらえたかどうか意識することの方が、遥かに重要だと私は信じています。

レジュメに自分の問いを書く。あらゆる反論を想定しておく。

今回は先生をはじめとした、専門的な哲学に詳しい方々にも参加してもらい、またレジュメ作成の元になる本もかなり専門的なものになります。そのため、多少アグレッシブな議論が予想されます。

レジュメの内容や問いも環境に合わせて作ろうとしているため、どう作成しようか悩んでいるところです。

 長年哲学をやってきた人や哲学を専門にしている人々を相手に対話をする限り、専門的であるがゆえに理解されないかもしれない、などと心配する必要はありません。どれほど専門的になっても構わないと思います。専門的であればあるほどよいこともあるかもしれませんし、その限りで、想定される「アグレッシブな議論」は、歓迎すべきことだと思います。

 「アグレッシブな議論」にはどうしても意識が集中してしまい、議論に勝とうとしたり言い返そうとしたりするかもしれません。それは避けられないことですが、それでも、自らの問いを本当に理解してもらうこととは無関係だということをいつも意識し反省しておく必要があります。本当に自分の問いが理解されているか、なぜ理解されていないのか、どうしてこの人には自分の問いが理解されないのか、自分の問いが誤解されてしまうのはなぜなのか、ということを、常に気にかけるべきです。その上で、可能であれば、事柄そのもののを配慮し、つまり真理を配慮し、どれほど自分や対話の相手が真理に近づいていっているのかを心に留めておくことができることが理想です。

 レジュメに何を書くべきかといえば、(1)自分の問い(2)それを示す根拠の2つだけでいいと思います。

 (1)については、先にも述べたとおり、自らの拘っている問いを、できれば一つに絞り、端的に書くのが望ましい。しかしそれはそう簡単なことではないかもしれません。自分の問いを明晰な言葉で言えるようになるために、ほぼ全ての哲学者が修行をしているようなものですから。

 (2)自分の問いを明晰に言葉にできなくとも、既に知られている概念や議論や専門的研究を取り上げて批判することで、自分の問いを明らかにすることができることも多々あります。これが実は伝統的論理学が教えるところの「弁証論」の意味なのですが、それはともかく、誤解されそうな点や、似ているけれども異なる論点や見解などの具体例や引用を上げて、自分自身の反論を書いておくとよいでしょう。また、レジュメに書いておく必要は必ずしもありませんが、先生や参加者を思い浮かべて、想定される反論に対し全て答えうるように心の準備をしておくように、私は心がけています。こういう準備があってこそ、思ってもみない反論や批判が他者から繰り出されたときに、どれほど幸運なことが起こったかが分かると思います。

ディスコミュニケーション

そこで林さんに、哲学塾においての議論や対話のルールをどう考えればよいか教えて欲しいと思っています。林さんが大学院で学ばれた「ディスコミュニケイション論」等を元に、現在お考えになる「対話とは何か?」を恐縮ながらお伺いできればと考えています。

 はじめにディスコミュニケイション論をもとに私が現在考えている対話について言及いたします。ディスコミュニケイションの最も重要な特徴の一つを私は次のように解しています。すなわち、誤解されたり議論が噛み合わなかったりすれ違ったりし続けることを承知の上で、言葉を尽くして説明することをやめないこと、です。互いの話がどこまで行っても平行線を辿る「押し問答」は、頻繁に起こります。普通ならそこでの妥協点や共通理解を探ろうとしますが、その誘惑や欲望を断ち切って、理解できていない点について意識を集中し、違和感を払拭するよりはむしろ育てながら、探究の行く末までを見届る辛抱強さが、哲学対話には必要だと思います。安易な着地点に到達しないで、居心地の悪さを保ったままで、コミュニケイションを続けることができれば、ディスコミュニケイションの核心をとらえた対話と言えるでしょう。

 ついでながら、哲学の議論において、このようなディスコミュニケイションが度々起こるのは大変興味深い現象です。私は今だにこれがなぜ起こるのかの原因が気になっているのですが、一つの仮説としては、哲学の問いが把握されるのには、その論理(ロゴス)と直知(ヌース)の相反する二つが必要だから、というものです。哲学の問いは、相反するその二つを同時に兼ね備えた特殊な知性にしか宿らないものなのでしょう。何とも不思議なことです。

 さて、最後に、哲学教室アレクサンドリアにおいての議論や対話のルールに関して私見を言えば、前もって気にするべきことは何もないと私は断言したいと思います。この教室で発表の場が与えられるということは、自分の問いを理解してくれるかもしれない仲間を見つけるチャンスが巡ってきたということです。ですから、自分の問いを思い切りぶつけてみてください。哲学を長年やってきた先輩や仲間の胸を借りて、自分が思っている哲学を思う存分やってみてはどうでしょうか。

 対話のルールや議論の仕方について知ることは確かに重要だと私は思います。けれども、いやだからこそ、そもそも自分の問いがありさえすれば、ルールだとか議論の仕方だとかは後から追いて来るものです。自分の問いを突き詰められるかどうかが全てなのであって、問いを突き詰めることができるなら、どんなルールや議論の仕方でも構わないはずなのです。

 私が哲学教室アレクサンドリアで対話をするに当たって現在考えていることは以上のようなものです。ご参考にしていただければ幸いです。上に述べたことの詳細などについてもしも質問や相談などがございましたら、可能な限りお答えいたしたいと思いますので、ご遠慮なくご連絡ください。私事や仕事が忙しく、お返事が遅れるかもしれませんが、お時間をいただければとお答えいたします。
 どうぞよろしくお願いいたします。

忙しさの中で小さな精神の訓練をすること

 ところで、探究のために文章を書いていて、ふと浮かんできたことを逃さないように書いておこうと思う。それは休む間もない労働の中で、会議だの報告だの文書作成だの投資契約だので、人々に分かるような表現の仕方を与えることを常に強いられるために心に浮かんできたものだ。それは、人に分かってもらえそうにないことを、書かずに排除しようとしたことだ。書いてしまうとややこしくなり、人々はそのような難しいことを時間をかけて考えはしないために、そうした表現をしないで分かるように、分かる範囲のうちで、正確さや微細さを軽視しながら、それとなく、人々がわかった気になりそうな言い回しや説明の順番を与える。労働する環境ではそのような表現を強いられる。そして、わかりにくく、曖昧で、微妙で、時間をかけて考えることを、表現のうちから除去するように強制される。

 私にさえ、そのような労働からくる強制が、哲学をしようとしているこの際にも、何かしらの影響を与えようとすることに、今気づくことができて本当によかったと思っている。この小さなことに気付かず、これが知らない間に習慣化してしまったら、きっと哲学が全くできなくなる。哲学どころか、およそものを本来の意味で「考える」ことさえできなくなる。自分ではじめから考える、ということができなくなる。ただただ、求めに応じるために考えさせられているに過ぎないことを、「考える」と勘違いしてしまうだろう。

 ものを考えようとするなら、人に分かってもらえるかどうかなどはまず度外視しなければならない。そんなことをはじめに考えるべきではないのだ。人に分かってもらえるかどうかは問題ではない。だからといって人に分かってもらえるような表現を与えるとか、人に分かってもらえるよう説明するとかいうことを全くしなくてよい、というわけではない。人に分かってもらえる努力をすることは必要なことかもしれない。だが、人に分かってもらえないことを、はじめから切り捨て表現しようとしなくなると、哲学の息吹は絶えてしまうだろう。それだけで、実は問いの芽は摘まれてしまうのだ。ほんの少しの不思議なことを、人生をかけて問い求めなければならないのだ。それを人に分かってもらえない、という理由だけで除去してしまっては絶対にいけない。その小さな少しの細かい疑問は、実はアルキメデスの点なのだから。

 人に分かってもらえそうにない、ということを理由に表現を与えようとしなかったこと、それをこのように反省して見逃さないようにすれば、十分であろう。だが、恐ろしいと十分に自覚しなければならないのは、今のようにふと心に浮かんだ小さなことを、小さなことだからというのでそれほど気にせず、注意を支払わず、何の気無しになおざりにしてしまうことだ。なおざりにしてしまって反省しないのが二度も三度も続けば十分に、悪しき習慣が身につくのは必須であろう。しかしながら、以上の述べたすべてのことが、全く持って些細なことであるために、ほんの一握りの人に、ほんのわずかの間にしか、顧みられることがないのである。

 ほんの小さなことだが、これこそは、卑しき労働しているその時間のうちでも、同時に哲学をしていく方法の一つと言ってよいのではないか。私は、労働を強いられた状況を受け入れもせず拒みもせず、その状況を自らを試練にかけるためだと自らに言い聞かせている。仕事をしながら同時に哲学できるかどうかを問うための実験だと思い込もうとしている。そのとき、では、何をすればよいのか。具体的に、何をすればいいのか。それが、以上のように、ほんの小さな精神の訓練をすることだと今は答えたいのだ。

 この小さな精神の訓練と今呼んでみたものが、実は哲学者たちにも仏教徒たちにも説かれてきたものであるに違いない、と私は信じている。もちろんそんなこととは知らずに幼い頃から修行だとも遊びだとも思って私はやってきたのだが、テオリアやメディタチオやヴィパッサナーとか言われるものを聞いたとき、私は何か同じようなものを感じ取った気がしたが、さて、それが本当なのかどうか、まだ分からない。