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生きるに値しない生とマルクスアウレリウスの火

生きるに値しない吟味のない生

プラトン全集1 『ソクラテスの弁明』田中美知太郎訳

38a またさらに、人間にとっては、徳その他のことについて、毎日談論するという、このことが、まさに最大の善きことなのであって、わたしがそれらについて、問答しながら(dialogounmenou)、自分と他人を吟味しているのを、諸君は聞かれているわけであるが、これに反して、吟味のない生活は、人間の生きる生活ではないと、こう言っても、わたしがこう言うのを、諸君はなおさら信じないであろう。しかしそのことは、まさにわたしの言うとおりなのだ、諸君。ただそれを信じさせることが、容易でないのです。

 また同時に、わたしとしては、自分がとうぜん悪を受くべきものであるというような考えには少しも慣れてはいないということもあります。

ギリシャ語原文、英訳 http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0169%3Atext%3DApol.%3Apage%3D38

マルクスアウレリウスの火 

マルクス・アウレリウス『自省録』4章1節

我々の内なる主が自然に従っている際には、〔できうるかぎり、〕許されるかぎり、出来事に対して常にたやすく適応しうるような態度を取るものである。

 なぜなら、彼は特にこれという一定の素材を好むわけではなく、その目的に向かって、ある制約の下に前進する。そしていかなる障害物にぶつかろうともこれを自分の素材となしてしまう。この点あたかも火が投げ込まれた物を捕らえる場合に似ている。小さな灯ならば、これに消されてしまうであろうが、炎々と燃える火は、持ち込まれたものを忽ち自分のものに同化して焼きつくし、投げ入れられたものによって一層高く躍りあがるのである。

http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A2008.01.0641%3Abook%3D4%3Achapter%3D1%3Asection%3D1

官僚制は実は知識ではなく、抽象的な知識の権威を社会全般に行き渡らせようとする

関廣野『プラトンと資本主義』 北斗出版 1982年


p380-382
例えば政府の高官と一介の女性の事務員を分け隔てているのは、身分ではなく官僚機構内の位置の差にすぎない。この事実に対応して、社会的官僚制が規範とする知識は、原則として万人に解放された公的な性格をもち、さらに特定の人格に神秘的に合体した知識ではなく、知識そのものの非人格的な権威がこの官僚制を支配する。加えてこの官僚制を伝統的官僚制から決定的に区別していることは、それが知識を万人に公開すべきものと認めるだけでなく、知識それ自体が可能な限り潤沢に万人の間に普及さるべきであると公言していることである。実際、プロテスタントが皆自分自身の救済に専念する祭司だったように、社会的官僚制の下では誰もが自分自身の教師となり可能な限り学問、教養を身につけねばならない。民衆は無知に留めおかれるどころか文化の圧力と公的措置にとって学問へと強制され、知識の権威に畏怖することを叩き込まれる。伝統的官僚制下の民衆の「アジア的無関心」とは対照的に、社会的官僚制下では教育熱が支配する。そして企業と官庁の官僚機構は、教育された労働力という視点から組織されている。
 近代的官僚制はこのように知識を普及されることを志向し、誰にでも知識を習得する機会を与えようとするが、これは人間本来の知的探求心とは何の関係もない。この官僚制は実は知識ではなく、抽象的な知識の権威を社会全般に行き渡らせようとする。それは官僚制化した社会で専門家が独占する知識のことであり、普及さるべき知識として正当化されているのは専門家の政治的威信なのである。したがって近代的官僚制は、知識を普及させ被支配者を「啓蒙」することをつうじてこそ知的独占の機会を作り出し、その知的独占の実体は官僚制の下で専門家が独占している政治権力である。この事態はかつてマルクスが暴き出した資本主義的な収奪と独占のシステムと見事に対応している。すなわち資本主義の経済体制は、労働者と消費者を直接収奪するのではなく、反対に大量の商品を生産し流通させることをつうじて彼等を長期的かつ最も効果的に収奪するのである。マルクスによれば、この流通をつうじての独占の形成が可能となるのは、工場において労働者が生産手段から分離され、人間的自発性を失って警衛隊の一要素と化していることによる。そしてこの資本主義経済における工場制度というスキャンダルに、資本主義の政治的文化におけるもう一つのスキャンダルが対応している。それは学校教育というスキャンダルである。
 近代世界の社会的官僚制は学校教育なしには考えられないものである。学校教育は個人の社会化の過程そのものを官僚主義的に管理し操作することによって、個人の市場社会への内面的な統合を実現する。そして工場制度が労働を資本という反=労働に転化させるように、学校制度は教育を反=教育に転化させる。というのも近代の学校の機能は本質的に政治的なものであって、抽象的な知識の権威を社会的に確立し、専門家による非専門家の操作と管理の正当化に仕えるものだからである。近代社会における官僚制的な支配の在り方は、学校教育のうちに要約されている。言い換えれば、知識の普及や人間形成をおためごかしに目標に掲げる近代の学校教育制度の本来の機能は、家族と地域社会からそれらに備わる伝統的な教育機能を剥奪し、これを社会的官僚制下の専門家の手に集中させることにある。伝統的にーーーそしてある意味では常にーーー個人の性格形成としての教育は家族に、倫理的=政治的教育は地域社会に委ねられ、民衆の日常文化と政治的自治能力はこの両者に基礎を置いていた。学校教育は、近代資本主義がこの民衆の政治的自治能力を麻痺させ粉砕するために用いた最も重要な戦略兵器であった。実際、資本主義体制の下では、経済の中心がその伝統的単位であった家族と地域社会から巨大な法人企業に移行すること、行政手段が匿名の官僚機構に集中すること、そして家族と地域社会に変わって学校教育が教育活動を独占することは、全く同時的な、事実上一つの事柄なのである。
 学校教育とは教育活動一般の官僚制化を意味する。しかし、一度制度化されるや、学校教育はあらゆる官僚制を生む原=官僚制として機能する。学校教育は直接資本に役立つ「人材」を養成するというよりは、機械としての個人を大量生産する。この教育学的支配という、市場最も陰険で冷酷な支配の様式は、十八世紀の啓蒙主義によって確立された。我々は啓蒙主義の本質を「教会から学校へ」という語に要約できよう。なるほど啓蒙主義は教会と「坊主ども」に政治的には激烈に対立したが、その実、「真理、進歩、人間性」といった合言葉の下に、西欧のキリスト教会が一千年来準備してきた民衆に対する教育学的支配を一挙に完成させたのであった。宗教改革がすべてのプロテスタントを俗世における修道士としたように、啓蒙主義は万人を抽象的な知識に奉仕する勤勉な学徒とした。こうして洗礼式に入学式が、牧師の説教に教師の課業が取って替わった。カルヴィニストの後継者は、何事にも正しい方法があると想定し、現在の必要ではなく将来への準備を強調する学校教育であり、カルヴィニストに独特な生活態度は、学校の生徒たちの間に再現されることになったのである。

昨日はこのような会に呼んでもらったのだが、上のことも言えばよかったなあと思ったのだった。

https://youtu.be/uZCWnO3yUK4

https://youtu.be/uZCWnO3yUK4

哲学のプロはありえない?

哲学にはプロやアマはあるだろうか。草野球や草サッカーがあるように、草哲学がないはずがない。プロ野球やプロサッカーと同じように、哲学もまたプロ哲学があるとしたら、それはアカデミズム哲学やジャーナリズム哲学のことであろうが、それらは果たして褒められるべき哲学であろうか。

ところで、素人や玄人、良し悪しがあるかもしれないことは、「なぞらじ」で話されていた。

「プロ」と哲学者とアカデミズムの問題に関するツイート

世すぎのために金をかせぐのが、どれほどの卑しいことであるか知っている人は少ない。

お金をもらうことが卑しいことだとしたら、お金をもらって哲学することはどうであろうか。

以上のことは、昔からの大問題なのだ。

歴史的な大問題であることの証拠 納富信留『ソフィストとは誰か』から引用

歴史的な大問題だ、とのことは、アカデミズム内部でもすでによく知られたことである。以前にnoteには書いたところを抜粋しておこう。

https://note.com/tritosanthropos/n/nab5bfba25d95

『ソフィストとは誰か』では、プラトン『ゴルギアス』の冒頭が次のように説明されている。 

 ゴルギアスの自負する「演示epideixis」に対して、プラトンがソクラテス哲学の「対話dialogos」を挑戦させる、対話編全体の趣旨を示している。人々の前で美しい言辞をつらねる弁論は別の機会にして、一問一答の対話で共に探求を、と要求するソクラテスに、ゴルギアスの側は一向に意に介さず、そういった一問一答も「演示」の一つであると受け入れる。
 哲学を弁論術から明確に区別し、対比させようとする哲学者の側の試みと、哲学の言説も弁論術の内部に回収して差異を消し去るソフィスト側の戦略とが、これほど明瞭に表現されている箇所は他にない。

『ソフィストとは誰か』p156 納富信留

もしかして「汝自身を知れ」「無知の自覚」とは、世すぎのための金稼ぎに対する自嘲?

お金をもらって知を与える営みに潜む不穏な何かに、プラトンが気づいたことが、哲学の歴史的起源だったのかもしれない。そうすると、「歴史的起源にさえも関わる」どころではなく、哲学の歴史的起源そのものかもしれない。

それは歴史的起源というだけでなく、人が哲学を「始める」に当たって必須なことかもしれない。自らの問いが、世すぎのための金を稼ぎなどという卑しい行為に成り下がっていることを自覚しない限り、哲学を始めることができないかもしれない。

もしかして無知の自覚や汝自身を知れ、とは、この種のことを言っているかもしれない、と考えたくなるのは、私だけだろうか。

考察:哲学と金稼ぎの目的と手段

お金をもらわずに哲学ができればそれはそれでよいことだろう。ここに問題はない。けれども、それと哲学を「教える」ことでお金をもらうこととを一緒くたにしてはいけない。

哲学を教えるに当たってすべからくお金をもらってはいけない、ということにはならないからだ。哲学に価値を認める人に限って哲学を教える場合には、哲学を教えることでお金をとってよい。そればかりか、お金をとるべきなのだ、ただで教えてもらえる無知な人々を排除するために。

このことが理解されれば、哲学に関わることでお金をもらうことが全て悪い、などという粗雑な結論には至らないはずである。哲学をすることが目的でありその手段としてお金を稼ぐという、目的と手段の主従関係が常に保たれている必要があるのだ。それゆえ、お金をもらうかもらわないかではなく、なんのためにお金をもらうか、を問う必要がある。それが哲学のため、真理のためであれば、許される可能性があるはずだ。

問い:金稼ぎを目的とし哲学を手段とすることは可能か。

いやしかし、そんなことよりももっと重要なことがある。金稼ぎを目的とし、哲学を手段とするようなことが、本当に可能であろうか。そんなことは、そもそも一体いかにして可能か。手段としての哲学、とは私にとってはもはや丸い四角、配偶者をもつ独身者のように聞こえて仕方がないのだが、それについては、オンライン哲学対話で語ることにするか。

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『ウソつきの構造』からの考察 哲学対話のルールに則るだけなのはウソつき?

ルールに則るだけの哲学対話はウソつきの哲学対話か?

中島義道『ウソつきの構造』を哲学対話という観点から考察するならば、二つの観点①ルールに則るだけの哲学対話②子どものウソつきの習得が重要になるだろう。この書が哲学対話に対して提起しうる問いは、ルールに則るだけの哲学対話には如何程の価値があるか、であろう。

『ウソつきの構造』〜法と道徳のあいだ〜 中島義道 角川新書 2019年10月

 哲学の領域に限っていえば、著者によって何度も繰り返し論じられているテーマが再び扱われている。参考は以下。

 今回の著書では人々の関心を集めた政治や社会の問題に即して論じられている。その点で、哲学にあまり馴染みのない一般向けの著書と言ってよいかもしれない。一般向けということでどれほど広く読まれるのかは私は知らないけれども、無責任な予想を立てると、著者のファンとともに、いやそれ以上にアンチも増えるのではないかと思われる。

 本書の詳しい部分について知りたければもちろん本書を読めばよい。それでも分からなければ哲学塾カントに行って直接本人に尋ねるかすればよい。本書の概要についても、誰かが書いたまとめよりも、本書の目次が一番正確であるに違いなかろう。

『ウソつきの構造』の目次

  1. ウソに塗れた法治国家
    1. 善意のウソ
    2. 客観的真理と内面的真実
    3. 外形的ウソと内面的ウソ
    4. なぜ、「ウソつき」と呼ばれると怒るのか?
    5. 「法に守られたウソ」がはびこる理由
    6. 現代日本に言論の自由・表現はあるのか?
    7. 二種類の人種
  2. ウソが誕生する瞬間
    1. ウソが誕生するメカニズム(その①)
    2. ウソが誕生するメカニズム(その②)
    3. 信用を維持するためのウソ
    4. 内面的ウソと自己欺瞞
    5. 些細なごまかしの堆積
    6. 「端的な事実」から「法に守られた真実」への推移
    7. パレーシア
    8. 朝カル事件の発端
  3. ウソが育っていく経過
    1. リーガルマインド?
    2. 刑法における「行為」と責任帰属
    3. 自白の心理学
    4. ウソつきの盾としての「人権」
    5. 予見可能性
    6. 個別的因果関係
    7. 復讐欲を無にはできない
    8. イワン・カラマーゾフの話
    9. 和解と調停の破綻
  4. ウソと理性主義
    1. ウソと法治国家
    2. 適法的行為と道徳的行為
    3. 真実性の原則と幸福の原則
    4. 無制限に善とみなされうるもの
    5. 「十歳の男児」でもわかること
    6. 根本悪
    7. 「嘘論文」
    8. 組織において弱い立場にいる人々
    9. 理性主義と感情
    10. 「真実」と「真実らしいウソ」
    11. 「ウソつき」の定義
  5. 哲学(者)の使命
    1. 「よく生きる」こととウソ
    2. 幸福追求とウソ
    3. ペテロの裏切り
    4. スタヴローギンの告白
    5. 人間は最終的には内面的真実を求める

ウソと哲学対話のルール

もはや違いが分からないワークショップと巷の哲学対話

哲学対話にとっては4章と5章が注目に値する。ところで昨今、教育の場面で言われている対話だとか、オープンダイアローグなどの医療やケアの場面で言われている対話だとか、あるいはそれより敷居の低いワークショップと言われてもおかしくのない対話とかがたくさんある。哲学対話は、そうした対話とは一線をも二線をも画すべきであるはずなのであるが、ではその哲学対話とはどのようなものか?その答えを考えるのに適切な材料を、これらの4章、5章は提供してくれているように私には思われる。

 ところで、ウソについて、著者は独特の洞察を持って定義するから、前もってそれをよく知っておく必要がある。

「ウソつき」とは、自分が真実を語るとソンをする(被害を受ける)状況において、適法性をもってすべての規準とし、それ以上道徳性を追究することがない者、真実に対して「尊敬」を抱くことがなく、何にせよ法的に正当化されれば、それで問題はないとする者、しかもこのことに対してとりわけ良心の呵責のない者、すなわち心を痛めることのない者のことである。

p177

「ウソつき」が以上のように定義されている。その後に病的な「ウソつき」の例の候補としてヒトラーがあげられ、ヒトラーはこの著書で考察される「ウソつき」の範囲にはないことが言われる。ついでではあるが、ヒトラーのような嘘つきについて著者が何を言っているのかの一端をお知らせしておく。

 ヒトラーの嘘に長く付き合っていると、ヒトラーの独特の人格が見えてくる。それは、あまりにも誇り高い青年が、いままですることなすこと裏目に出てきたという状況において、ようやく見出すことのできた活路であり、ごく一般的にまとめればすべては「(自分ではなく)社会が悪いのだ」と解釈することである。
 少なからぬ青年はそこにしがみつく。それは、自己欺瞞と言うにはあまりに切実な自救行為である。これを(後に述べるイェツィンガーのように)単純に「嘘だ!」と糾弾し、すべては人らが自分を騙し大衆を騙して権力を得るための戦略であり戦術であると結論するのは、読みが浅い。ミュンヘン一揆の後にはあるいはそうかもしれない。だが、ウィーン時代のヒトラーにはそんな自覚はなかったに違いない。二十歳の彼は、自分を救うことで精一杯だった。
 そうした青年はいつの時代にもいたし、現代日本にも少なからずいる。しかし、その多くが自分に対する外からの客観的評価を無視できないのに対して、ヒトラーの天才は、自分に下された客観的評価を(心の中で) 「無」にできること、それほどまでに自分を救うことに熱狂できることである。 
 世界の構図をすべて逆転してでも自分を救うことは「義務」なのだ。そのために必要なものなら何でも利用する。たとえ真っ赤な嘘でも。これまでの人生において度重なる負け札を引いてきた自分が、このまま終わるわけがない。この推理にさしたる理由はない。あえて言えば「自分だから」だ。
 ここには、サルトルの言葉を使えば、「形而上学的自負心」(自分が何であるか、何をしたかによる自負心ではなく、ほかならぬ自分だからという自負心)が唸なり声を上げている。ヒトラーは、この「形而上学的自負心」の巨大な塊であった。それが、究極的には、彼の異様なほどの「成功」の原因もあり異様なほどの「失敗」の原因でもある。

中島義道『ヒトラーのウィーン』

 さて、このようなウソを確認したところで、哲学対話について考えてみよう。哲学対話において、嘘は言ってはならず、本当のことを言うべきだというのは、もはや私が言うまでもなくよく知られている。しかしながら、それが哲学対話の最中でさえ、どれほど難しいことであるかを人々は知ったつもりになっている。哲学対話が本当のことを話す場所を提供しているからといって、本当のことを容易に語ることができるわけではない。哲学対話というルールと環境さえ整えば、人々は簡単に真実や真理を探究し語り合うことができるなどと勘違いしている人が多すぎる。哲学対話という場所と環境が整っており、哲学者がその場にいても、その当の哲学者でさえ、真実を語るのは、相当難しい。それがどれほど難しいことか、先に定義された「ウソつき」から理解してもらえるはずだろう。

哲学対話のルールに則るだけなのは、ウソつきである。

 ウソつきの定義から明らかになるのは、哲学対話のルールに則るだけでは、哲学対話における「ウソつき」が生まれるということだ。哲学対話にはルールすなわち法がある。例えば、人格を攻撃しないとか意見を否定しないとか、である。それらのルールに則って話したり聞いたりしているだけでは、「適法性をもってすべての規準とし」ているにすぎず、「真実に対して「尊敬」を抱くことがな」いのと同じことである。

 哲学対話の裾野が広がるとともに、この種のウソつきが蔓延るのは不可避である。哲学者自身だせ、この種のウソつきになってしまうことを避けられないのだから。それなのに、人々はどういうわけかこうした目障り耳障りな事実に蓋をして世の役に立つとか哲学が求められているとか言っているのだ。それは本当に不思議なことだ。

子どもと「ウソつき」とは?

 このような「ウソ」をつくことができるのは大人に限られるのかどうか。その点はこの著書は扱わないが、子どもの哲学、子どもとの対話にとっては重要なものだ。この著書がその点を考慮していないとしても、この著書から汲み取ることのできる論点をみていこう。

ソントクをまだ知らない子どもは、いつになったらウソをつくようになるのか

問いたいのはこうである。

子どものように、まだソンやトクがどんなものであるかを身をもって知らないということがあるというのに、その子どもがいつしか自分が真実を語るとソンをするということを知り、さらに適法性をもってすべての規準とすることを体得する。これは一体どうしてなのか。

子どもから大人へ至る過程でどのようにウソつくことを知るのか。ウソを体得する過程があるのはなぜか。それはどのようなものか。

私自身、大人になってしまいウソを体得してしまっていることに自覚があるが、一体それはどのようにして身についてしまったのか。そういう問いを立てることができる。

著書が扱っていない論点だとはいえ、著者にとっても、また著者が紹介する限りでのカントにとっても、実は重要な論点となりえないだろうか。というのは、たとえば真実は十歳の男児でも分かる、と言われている(pp.151-152)から。また、1、2、3章ではウソが法治国家から成立すると言われている。その法治国家を成立させているのはすべからく大人である。とすれば、放っておけば法治国家など成立させるはずもなかろう子どもはどうなのか。

なぜ子どもは、大人にウソをつくように教育・教化されてしまうのか

法治国家を成立させウソのまかりとおる国家に安住する大人へと、子どもが、(他の)大人によって「教育」いや「教化」されてしまうのはなぜなのか。逆にいえば、一体大人は、どのようにしてソンやトクの計算をしない子どもを、子どもたちを、道徳を尊敬したりしなかったりすることが可能な大人へと教育していくのか。そんな真実を知っている子どもはいつ真実を忘れ、真実を知らないといい、ウソをつくようになるのか。これは先天的なことなのか。学習することなのか。一体そもそもどうしてそんなことになるのか。私の疑問はつきない。

 思うに、以上の問いに対して答えることが難しいことが、哲学対話が、そして哲学することが、難しいことの理由である。いや、そもそもはそのような問いがあるということに気づくということが、難しいのである。

余談:ウソつきと無知

今回の考察は以上で完結なのだが、以前から気になっていた中島=カント倫理学において無知はどのようなことになるのか、という問いを少しだけ扱っておく。

とりあえずは一つ、ソフィストと哲学者とを論じたプラトンの著作から引用する。

エレアからの客人 何ごとかを実際には知らないのに、知っていると思い込むことが、それだ。おそらくはこれによってこそ、われわれが思考においておかすすべての過ちが、すべての人々にとって起こるのだといえよう。

テアイテトス おっしゃるとおりです。

エレアからの客人 そしてまた、思うに、この種の無知だけは、無学(無智)という名前がつけられているのだ。

テアイテトス たしかに。

エレアからの客人 では‹教授する技術›のうちで、この種の無知を取り除くことを役目とする部門は、何という名前でこれを呼ぶべきだろうか。

テアイテトス 私の考えでは、お客人、その他の部門は職人的な専門技術の教授と呼ばれていますが、おたずねのその部門については、教育(教養)という呼び方が、われわれを通じてこの土地では用いられています。

エレアからの客人 じじつまた、テアイテトス、ほとんど全く全ギリシア人の間でそう呼ばれているのだよ。しかし…

229c, プラトン全集3 岩波書店 p42

ここには注がつけられていて、ソクラテスの弁明のあまりにも有名な箇所を参照することと言われている。

つまりこの人は、他の多くの人たちに、知恵のある人物だと思われているらしく、また特に自分自身でも、そう思いこんでいるらしいけれども、実はそうではないのだ、と私には思われるようになったのです。そしてそうなったときに、わたしは彼に、君は知恵があると思っているけれども、そうではないのだということを、はっきりわからせてやろうと努めたのです。すると、その結果、わたしはその男にも、またその場にいた多くの者にも、にくまれることになったのです。

 しかしわたしは、自分一人になったとき、こう考えた。この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりに、知らないと思っている。だから、つまりこのちょっとしたことで、わたしのほうが知恵のあることになるらしい。つまりわたしは、知らないことは、知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。そしてその者のところから、また別の、もっと知恵があると思われている者のところのへも行ったのですが、やはりまた、わたしはそれと同じ思いをしたのです。そしてそこにおいてもまた、その者や他の多くの者どもの、にくしみを受けることになったのです。

『ソクラテスの弁明』21C 新潮文庫p18

内面の真実性と無知の自覚

 カント=中島によれば、真実なることが内面では確立している。自らの考えたこと感じたことは、たとえ客観的事実とは相違する可能性が残り続けるとしても、語るだけの真実であり、またを(人間)理性はその真実を知っている。わたしの見るところ(といってももちろんフーコーやその他の人々の考えをいろいろ知ってからこう言っているのではあるので、私独自の見方であるというわけではない)、これこそがおそらくはデカルト・ロック以来の近現代に特徴的な「自己」や「認識」のような哲学者の関心事として解釈されている、人口に膾炙している謎の哲学の常識である。

古代の伝えるところの無知は、そのような常識とは微妙であるが故に決定的に異なる。多くの一般人からは関心が寄せられないばかりか、誤解されている。それだけならまだしも、誤解されていることがなおざりにされたままである。自己や内面をどれほど反省したところで、知るというに値するものは何もない。それだけは、自己や内面のうちで確実に成立する真理である。それこれが古代の無知に関する洞察がソクラテス以来、伝えるところなのである。

何も難しいことではない。ソクラテスの弁明がいうとおり、善美なる事柄に関して、まだ自分は何も知らないということくらいは自覚できる、十分すぎるくらいに。それだけの話である。近現代に至り、以上のことが、自分が考えることに価値があるなど誤解されている。そんな誤解にも気づかず屁とも思っていない連中が地球上の99%を占めているのに、はらわたが煮えくり帰りそうだが、この点については先日も論じた。

根本悪の「認識」の成立根拠を尋ねないのはなぜなのか?

 カント=中島の枠組みに無理やり合わせて語るのを続けるのは 気が進まないのであるが、たとえば155ページから紹介されている根本悪について、たとえば根本悪に関する認識がいかにして可能か、と問えば、ソクラテスの言うところの無知の自覚を論じることに近づいたはずであろうと私は推測する。何もかもを反省の眼差しの俎上にのせ、超越論的○×□#%※という仰々しい名前を与えるにもかかわらず、根本悪の認識根拠について黙っているのが不思議でならない。道徳に対する尊敬だとか真実性の優位だとかは、根本悪の認識へ向けられているのか?それが、最大の関心事にならざるを得ないのではないのか。実際、幸福への真実性の優位だの道徳への尊敬だのを論じることが、自説の押し付けでとどまるわけはなく、それに対して不信感を抱かせる以上に、問いを閉ざす教理の強要になるかもしれない。なぜ、その種の疑いが忘れられているのか。

結論(?)

 結論といってまとめるほどのことはもちろんない。実際、以上に思考した過程こそが重要であるから。とはいえ、以上の思考の過程を、ふたたび辿り直すのに有用なことは短く言えるかもしれない。

 『ウソつき構造』を哲学対話の視点から読むならば4、5章が重要であること、そして私が提起した問題は、ウソつきになるように教育されるのはどのようにしてなのか、であった。その次に、ウソつきと無知はどれほど関連しているのかの問題を提起した。それに対して、根本悪の認識根拠を問わないことが無知の自覚に対する考察とそぐわない、と答えた。振り返れば以上のような流れをみることができるかもしれないが、果たして本当にそうなのか、どうか。

フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない

承前 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない

B 省察は主体の思考に対する働きかけではない。思考の主体への働きかけである。

引用

p404

省察は誤解されている

 ここでひとつの概念が出てきます。この概念についてはいずれまたもう一度お話しするつもりですが、今日も少し立ち止まってみたいと思います。それは「省察(méditation)」という概念です。ラテン語のメディターティオ meditatio (その動詞形は meditari)はギリシア語の名詞のメレテーmelete の翻訳であり、その動詞形はメレターン meletan です。このメレテーやメレターンという語は、少なくとも十九世紀や二十世紀の人間が「省察」というときに考えるような意味をまったく持っていませんでした。メレターンとは訓練のことです。それは、「訓練する」とか「熟練する」といった[意味を持つ]ギュムナゼイン gumnazein という言葉と近い意味を持っています。ただし、この語とは少し違ったコノテーションを持っています。意味の場の重心が少し異なっていると言ってもよいでしょう。一般にギュムナゼインは、「実際の」試練、事柄それ自体に立ち向かうひとつの方法のことを指します。たとえば敵に立ち向かうことによって、彼に対して抵抗できるか、彼よりも強いかを確かめるようなものです。それに対してメレターンはむしろ思考訓練、「頭の中での」訓練ですが、今日の私たちが考える「省察」とはかなり違ったものです。「省察」というと私たちは、何かについて特別の集中力で思考しようと試みること、ただしその意味を深めることはしないことだと考えてしまいます。あるいは「省察」とは、思考の対象である事柄から出発して、多かれ少なかれ規則的な順序で思考を発展させることを意味します。今日の私たちにとって「省察」 とはこのようなものです。しかしギリシア・ラテンの時代の人にとってのメレテーとメディターティオは別のものです。それを二つの側面から理解しなければならないと思います。

訓練としての省察

第一にメレターンとは、自分のものにする訓練、 思考によって自分のものにする訓練です。ですから、ある文章が与えられたときに、それが何を意味するかを[知ろうとする]努力をすることは重要ではありません。およそ釈義という方向には向かわないのです。メディターティオとは、[思考を]自分のものにすること、そしてそれを深く確信することです。すなわち一方ではそれを真だと信じることが出来るように、他方ではそれを繰り返して言うことができるように、つまり必要や機会が生じたらすぐに繰り返して言うことができるように、深く確信することなのです。したがって重要なのは、この真理が精神に刻み込まれて、必要なときに思い出せるようにすること、すなわち(前に話した表現を使うならば)プロケイロン(手許に)置くことによって、すぐさま行為の原則とすることができるようにすることなのです。自分のものにすること、それは次のようなことを意味します。すなわち、真実の事柄から出発して、真実を思考する主体となり、 真実を思考する主体から、しかるべき方法で行動する主体になることなのです。「メディターティオ」という訓練が向かうのはこのような方向です。第二に、別の方向では、メディターティオは一種の同一化の経験をすることで す。つまりこういうことです。メディターティオとは、事柄それ自体について思考することではなく、むしろ思考している事柄の訓練をすることなのです。そのもっとも有名な例が、死についての省察という訓練であることは言うまでもありません

死について省察する

ギリシア・ラテン期の人が理解していた意味では、死について省察する (meditari, meletán)ことは、「これから死ぬのだ」ということを考えることではありません。このような死の観念に、たとえばその帰結となるようないくつかの観念を結びつけることではありません。死について省察すること、それは死につつある人、これから死ぬ人、死の前の数日間を過ごしている人の状況に思考によって身を置くことです。省察とは、主体が自分の思考に働きかけることではなく、主体が対象に働きかけること、自分の思考の可能な対象に働きかけることでもありません。現象学で言うような、形相的な変更の次元のものではないのです。それはまったく異なったゲームです。

思考が主体自身に実際に働きかける

それは主体がひとつの思考に対して、あるいはさまざまな思考に対して働きかけることではなく思考が主体自身に実際に働きかけることです。つまり思考によって、死につつある人あるいは今にも死のうとしている人になる、ということなのです。比較していただきたいのですが、けっきょくのところデカルトが 『省察メディタシオン』でおこなっていたこと、彼がこの言葉に与えていた意味もまさにこのようなものでした。それは主体の思考に対する働きかけではなく、思考の主体への働きかけなのです。ですから、この省察という実践の歴史をたどり直さなくてはならないでしょう。古代における省察、原始キリスト教における省察、十六世紀から十七世紀に おけるその復活、あるいはその新たな重要性と爆発的な発展などです。いずれにせよ、十七世紀にデカルトが「省察」し、『省察』 という本を書いたのは、こうした意味においてなのです。主体の思考に対する働きかけなどではありませんデカルトが思考したのは、世界において疑いうるものについてではありません。また、疑いえないものについてでもありません。これは普通の懐疑的な訓練にすぎないと言ってよいでしょう。デカルトはすべてを疑う主体の状況に身を置きますが、疑いうるもの、その存在を疑いうるものについて問いたずねることはありません。 

デカルトは疑いえぬものを探究するものの状況に身を置く

そしてデカルトは、疑いえぬものを探求する者の状況に身を置くのです。したがってこれは思考やその内容についての訓練ではありません。主体が思考によってある状況に身を置く訓練なのです。ここには、思考の効果の関係における主体の位置の移動があります。以上のようなことが、今お話ししている時代において、哲学的な読書が持つべき省察的な機能なのです。主体が思考によって虚構の状況に身を置き、そこで自分を試練にかけること、こうした省察的な機能のゆえにこそ、哲学的な読書はーーー全面的にではないにせよ、少なくとも多くの場合ーーー作者に無関心であり、文や格言が置かれたコンテクストにも無関心なのです。 

コメント

 「汝自身を知れ」は『ソクラテスの弁明』というもっとも有名な哲学書を思い起こさせたことでしょう。それに勝るとも劣らないほど有名な哲学書の一つがデカルト『省察』であり、「我思うゆえに我あり」を知らない人はいないくらいです。ですが常識的に解された限りのデカルトや「我思うゆえに我あり」は全く間違っている、とフーコーのこの著は教えてくれています。

哲学対話における「考える」は日常的な意味は全くない

 哲学対話において「よく考える」とか「思考する」とか、自己自身との対話においても「考える」ということを、問い直すべきです。哲学対話において「考える」というのは普通の意味での「考える」とは全く違います。哲学することは普通の意味での「考える」という軽率な意味では全然ないのです。物事を順序立てて整理する、言葉の意味を理解する、人を思いやって言っていることをよくきく、とかいった低次元の誰でもできそうなことが、哲学における「考える」ということではないのです。だから、哲学対話においてなすべき「考える」とか「探究する」とかいうことは、簡単にできるような代物ではなく、お気楽なものでは決してないのです。上に言われているようにそれは訓練が必要なのであり、訓練そのものであり、例えば、今から自分が死んでしまうような状況を心の中だけで作り出すというようなものです。

 そのような「考える」は、舞台の上で役者となって死を演じるのよりも難しいはずです。舞台に上がり、小道具大道具が用意され、他の役者に囲まれてその状況が環境的にも十分に似せられているところで、あなたが登場人物になりきって死ぬ演技をすることはできるでしょう。それとて全然簡単なことではありません。相当な稽古を積み、その役柄の知り、その役柄になりきる訓練が必要だからです。

「なりきる」ことよりも難しい「考える」こと

 哲学のおいて要求される思考の訓練は、それら全てを思考のうちで行うのです。舞台という外的装置もなく、役柄について教えてくれる台本も何もない。それらを全て「考え」出さなければならない。それがどれほど難しいことかは、考えてみないと、到底わからないことでしょう。だからむしろ、思考が自分を支配するというような言い方が正しいのです。引用した箇所に近接した別の箇所では、フーコーは二度にわたって「主体の思考に対する働きかけなどではない」と主体が思考に働きかけることを強く否定しています。主体が何か思考に影響を及ぼすという発想を排撃している。哲学における「考える」とは、普段通りの自分がいて、その自分が何かを考える、というようなことでは全くないのです。そもそも普段の自分はどこにもいなくなって、考えつまり思考が、自分になるのです。哲学対話において「考える」ことを実行しようとしているのなら、そのような「考える」でなければなりません。

 デカルトの「我思う」の「思う」は、厳密に以上の意味だということを理解しなければなりません。ということは、およそ「理解」などしようとすることが間違いだと気づかれるでしょう。デカルトがしたのとまさに同じように、全てを疑ってこそはじめて、デカルトの言っている「我思う」になるのです。いや、デカルトのように考えているのではダメで、デカルトが自分にのりうつる、くらいでなければなりません。自分がデカルトにのりうつるのでもダメです。

デカルトの省察は、疑いえぬものを探求する状況に身をおく訓練だった

 デカルトは「疑いえぬものを探求する者の状況に身を置く」とフーコーは言っています。ということは、「我思う」を遂行しようとするなら、「疑いえないものを探究」しなければならないということです。「我思う」という言葉を理解しようと努めるよりもむしろ、本当に「疑い得ないものとは一体何か」と自分自身が問いかけるのでなければならない。「疑いえないものとは何か」と、デカルトと同程度に自分が問うている必要があるのです。もはやデカルトの霊が私を欺き「疑いえぬものとは何か」と問わしめている、そういう状況になっていなければならないということです。そのときにはじめて、「我思うゆえに我あり」の真価を知るのだと思います。

 以上に述べてきたことは、対話には直接関係ないように思われるかもしれませんが、そうではありません。対話する相手が生身の人間であろうとテクストであろうと過去の自分の思いであろうと、その状況に身を置く訓練をするということには変わりがないからです。哲学における「考える」は常にそういうものでなければならないのです。言葉の意味を探ることや記憶を呼び覚ますことや他者へ配慮することなどそれらの部分にすぎない。それらの部分を総動員して、状況に身を置くこと、これが哲学的に「考える」ということなのです。このような「考える」には、しばしば用いられる「深まる」などというのは似つかわしくない。「主体が思考によって虚構の状況に身を置き、そこで自分を試練にかける」度合いを測って「深まる」とかそうでないとかは言い得ないでしょう。

ピエール・アドの精神の修練、マインドフルネスの同一化

 思考の主体に対する働きかけ、という主題は、フーコーに比べると日本ではあまりに有名でないのが不思議なピエール・アドのexercice spirituel 「精神の修練」を連想させます。また、思考や同一化の経験を悪として取り扱う仏教やマインドフルネスとの違いが気になりもしますが、的外れな憶測かも知れません。

続き (その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。

続きの続き (その四) ソクラテスの弁明からの引用

フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。

承前 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない

承前 (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない

C 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。実際に自分のものとなるような真の命題を身に装備することである。

引用

p406(Bの引用にすぐ続く部分)

 また、こうした省察的な機能によって、読書から得られる効果も説明されます。それは作者が言いたかったことを理解することではなく、実際に自分のものとなるような真の命題を身に装備することです。ですから折衷主義的なところはまったくありません。つまり重要なことは、さまざまな起源の命題を寄せ集めることではなく、命題の安定した生地を織り上げることなのです。こうした命題が、命令や真実の言説としてだけではなく、行動原則としての価値を持つのです。このように読むことは訓練や経験と考えられ、省察のためになされます。だから、容易におわかりのように、読むことは書くことと直接に結びついています。それは当時きわめて重要だった文化的・社会的現象なのです。そこで書くことは大きな位置を占めていました。

私的かつ個人的に行われる書く行為は自己訓練

それもいわば私的かつ個人的におこなわれる書く行為なのです。この過程の起源を正確に見きわめるのは難しいのですが、いまお話ししている1-2世紀という時代に限るならば、書くことはすでに自己訓練のひとつの要素となっており、ますます強化されていくことになります。読むことは書くことによって延長され、強化され、新たに活性化されます。それは訓練であり、省察の要素でもありました。セネカは読むことと書くことを交互におこなわなければならないと述べていました。書簡第八四です。彼は言います。読んでばかりでもいけないし、書いてばかりでもいけない。第一の営み(読むこと)をたえず続けていると自分の力を衰弱させてしまうことになる。書いてばかりいると力を減少させ、弱めさせてしまう。 読むことと書くことをおたがいに緩和するべきだ。読書によって集めたものを、文章の表現によって作品(コルプス corpus)化しなくてはならない。読書はorationes, logoi(諸言説、言説の諸要素)を集める。それをコルプスにしなくてはならない。書くことこそがコルプスを構成し、保証してくれるのだ、とセネカは言うのです。このような書くことの義務、書くことの勧めは、人生上の教えや自己実践の規則には絶えず見られます。たとえばエピクテトスは次のように忠告します。省察し(メレターン meletan)、書き(グラフェイン graphein)、訓練する(ギュムナゼイン gumnazein)ことが必要である、と。まずメレターンとは、多くの場合読んだ文章によって支えられる思考訓練のことです。グラフェインとは「書く」ことですね。最後にギュムナゼインとは、実際に訓練すること、現実の試練やテストを受けることです。また死についての省察を書いたあとで、エピクテトスは次のように結論します。「こうして思考したり書いたり文章を読んでいるときにも、死は私を襲いうる」。したがって書くこととは訓練の一要素であり、同時に可能な二つの使用を持つという利点を備えた訓練の一要素なのです。

思考している事柄を自らに同化し、魂や身体に根付くようにする書く行為

まず自分自身のための使用があります。書くという行為だけで、思考している事柄をみずからに同化するのです。その事柄が魂や身体に根付き、いわば習慣のようなもの、肉体的な潜在性になることを助けてくれるのが書く行為なのです。読んだあとに書くこと、そして書いたあとに書いたことを読み直すことは、習慣として勧められていました。それも声に出して読み直さなくてはなりません。ギリシア・ラテン期の表記では単語は分離されていなかったからです。 ですから、読むにはきわめて大きな困難があったわけです。読書の訓練は容易な訓練ではありませんでした。私たちがやるように目だけで読むわけにはいきません。単語を正確に区別するためには、小声で発音しなければなりません。このように、読み書きの訓練、書いたことや覚え書きを読み直すという訓練は、ひとが手前に持っている真理やロゴスを自分のものにするための、ほとんど肉体的な訓練でした。エピクテトスは言います。「以上の思索を、 夜も昼も手許にあるもの(prokheira)とするがいい。それらのことを書き、それらのことを読むがいい」。読書にあたる伝統的な単語は anagignoskein、すなわち、しかるべく分離したり配置したりすることが難しく、従って理解するのも難しい記号の寄せ集めの中で認知することです。したがって自分の思考を保持するのです。自分の思考を手許に保持するためには、それを書かれたものとし、自分のために読まなくてはなりません。思考について 「自分自身とも、他人とも、『このことに対して、君は私に援助することができるか』と話すがいい。それからさらに、次々と違った人のところに行くがいい。それからもし何かいわゆる好ましくないことが起こるならば、それは予期しないことではなかったという考えは、さっそくまず君の心を軽くしてくれることだろう」。そして読み、書き、読み直すことはこの praemeditatio malorum(災悪をあらかじめ予期する訓練)の一部なのです。ストア派の修練においてきわめて重要なこの問題については、次回か、あるいはいつかお話しすることになるでしょう。

真実の言説を体内化する

ですから、ひとは読んだあとに書くことによって読み直すことができ、自分自身に対して読み直すことによって、他人の口から聴いたり、他人の文章の中で読んだりした真実の言説を体内化する(s’incorporer)ことができるのです。以上が自分のための使用の場合です。もちろん書くこともひとつの使用であり、それは他人に役立ちます。あ、 そうそう、忘れていました。読書や会話や講義の時に書かなくてはならない覚え書きは、ギリシア語ではヒュポムネーマタ hupomnémata と呼ばれています。記憶の支えということですね。この記憶の記録があれば、読書や記憶の訓練によって語られた事柄を思い出すことができるのです。 

コメント

 読むこと書くことについて述べられた上の引用を、対話に置き換えるとどうなるでしょうか。読むことは聞くことに、書くことは話すことになるかもしれません。

対話を「読む」ことは、他者の問いを暗唱すること

 読むことが、フーコーがいうように作者の言いたかったことを理解することではなく、自分の実際に自分のものとなるような真の命題を身に装備することだとするなら、それと全く同じことが、「聞く」ことにも言えるでしょう。すなわち、対話する他者の言いたいことを理解することにとどまらず、その聞き手が実際に自分のものとすることができるような真の命題を聞き手のみに装備することができるほど、聞き入らねばならない、ということです。しばしば起こるようなものではありませんが、私が経験するのは、話し手の言葉が舞台で演じられている芝居の台詞であるかのようにこだまして聞こえたり、楽曲の印象的な旋律やフレーズが耳にこびりついて離れなくなる、といったようなことです。

発言者の意図を読み取ろうとする間違い

 そういう意味で、ここで言われているような読むように聞くとは、対話者の発言の一つ一つを記憶するかのごとく小声で反復し、暗唱しようと務める精神の活動でしょう。これに対するのは、発言者の意図や心的状況や家庭環境や仕事上での立ち位置や経験などを憶測してみたり読み取ってみたりすることです。メタダイアローグ、対話の振り返りなどをすると、参加者やファシリテイターは、いかに対話を読み取ろうとしていたかを語り始めることが多々ありますが、それらは全く正しくない、ということです。とりわけ、抑圧されている人々の背景や事情などに想いを巡らすなどということは、対話を近代的な意味で「読もう」としているのであり、古代の意味での「読む」ことではない。話し手の言いたいことを理解するのが重要なことではないのです。話し手の言葉を、実際に自分の身に装備することができるようなものなのかどうかを自問することができるほどよく聞き、暗唱できるくらいにならねばならないということでしょう。発言者がその場で発したその言説(ディスクール)の背後や意味を読み取る必要など全くないのです。

対話を「書く」ことは、自問してから話すこと

 また、書くことは、先のAの最後あたりに述べたように、自問したのちに話すことと重なるでしょう。当てずっぽうや思いついたことを口に出すのではなしに、「真実の言説を体内化」してから話すということでしょう。百歩譲っても、「真実の言説を体内化」しようと努めるために、話すということでしょう。現代のコンピューターのおかげで書くことはあまりにも用意になりましたが、それでも話すときほど当てずっぽうに書くことはできずまず言いたいことを整理してから書くくらいの遅さが必要なように、対話においても、書くときと同じ遅さで話すべきなのです。あえて通俗的に言えば、書けそうにもないような速さで話すべきではないのです。すでに一度書いたものをもう一度声に出して読むように、話すべきなのです。対話を哲学的にするには、それくらい遅くなければならない。哲学対話でしばしば言われる「ゆっくり」考えるとか「ゆっくり」話すとかいうのは、書くときと同じくらいの遅さ(速さではなく)で、解するのが適切です。

エクリチュールと「書く」こと

 デリダにエクリチュールというのがありますが、書くように対話するということは、エクリチュールに抗うものなのかもしれません。すなわち記録され文字化されるときには、話されていたときに現前していたことが失われて独立するに至る。書かれた文字はそのようなものでしかありえないというのは一つの真実でしょう。そのことが真実ならばこそ、書かれた文字よりも一層「書く」という行為そのものによって、文字に真実の言説を記録させるのに抗って、真実の言説を「体内化」しようとしたのでしょう。書くことによって、文字に真実を同化しようとはせず、書いている魂や肉体に真実を根付かせ、習慣とし、肉体的な潜在性となるようにしたということです。対話において「話す」ということは、それほどのことを意味するのでしょう。話された声に真実を任せてしまうのではなく、話している声の真実が、話している魂や肉体に刻み込まれていく、ということでしょう。対話において話すことは、メモ書きのように必要とあればまた見返すことのできるようなものを書きつけることではない。数も少なくいつボロボロになってしまうのか分からない貴重な紙に、今にも尽きてしまいそうなインクの量で手紙を書くようなことなのでしょう。

 こんなことが、私のキーボードタイピングによって画面に映し出されているとは、あまりにも皮肉なことではないかと考えずにはいられません。

続き (その四) ソクラテスの弁明からの引用

フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その四) ソクラテスの弁明からの引用

承前 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない

承前 (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない

承前 (その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。

まとめにかえて

 哲学対話の観点に限定しても、600ページを超える『主体の解釈学』はあまりに内容豊かであり、私には到底まとめるなどということができません。いや、まとめるなどということはわかった気にさせるという観点から、避けられねばならないでしょう。ほとんどの人が、まとめられないばかりによく分からず、そのよく分からなさに忍耐強くならないで、考えることを放棄するわけですが、それこそが、ここで糾弾されるべき当のことではないかと思われます。汝自身を知ることも、省察も、書くことや読むことも、ひと時どころか一日一夕には成らない訓練だということが、ここでは言われ続けていたことなのだからです。

 まとめにかえて、ソクラテスの弁明から引用します。

ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫)   プラトーン  田中美知太郎訳 新潮文庫

自己認識とは、自分の知っていることには何も価値がないと知ることである

23AーC、p22
しかし実際はおそらく、諸君よ、神だけが本当の知者なのかもしれない。そして人間の知恵というようなものは、何かもうまるで価値のないものなのだということを、この神託の中で、神は言おうとしているのかもしれません。そしてそれは、ここにいるこのソークラテースのことを言っているように見えるけれども、わたしの名前は、つけ足しに用いているだけのようだ。つまりわたしを一例にとって、人間たちよ、お前たちのうちで、いちばん知恵ある者というのは、誰でもソークラテースのように、自分は知恵に対しては、実際は何の値打ちもないものなのだということを知った者が、それなのだと、言おうとしているようなものなのです。だから、これがつまり、いまもなおわたしが、そこらを歩きまわって、この町の者でも、よその者でも、誰か知恵のある者だと思えば、神の指図に従って、これを探して、調べあげているわけなのだ。そして知恵があるとは思えない場合には、神の手助けをして、知者ではないぞということを、明らかにしているのです。そしてこの仕事が忙しいために、公私いずれのことも、これぞと言うほどのことを行う暇がなくて、ひどい貧乏をしているが、これも神に仕えるためだったのです。

ふさわしい刑罰は、迎賓館での食事である

36CーE、p55
 さて、ところで、この男はわたしに対して、死刑を求刑している。よろしい。それなら、これに対してわたしは、いかなる刑を申し出るべきだろうか。アテーナイ人諸君。無論、至当のそれでなければならない。では、それは何か。わたしは一生を、おとなしくしてはいなかったというので、何の刑を受け、何のつぐないをしたら、至当だということになるのだろうか。わたしはしかし、大多数の人たちとは異なり、銭を儲けるとか、家事をみるとか、あるいは、軍隊の指揮や民衆への呼びかけに活動するとか、その他にも、官職につくとか、また徒党を組んで、騒動を起こすとかいう、いまの国家社会に行われていることには、関心を持たなかったが、それはそういうことに入って行って、身を全うするのには、自分は本当のところ、善良すぎると考えたからなのだ。それで、そこへ入って行っても、あなた方のためにも、わたし自身のためにも、なんの利益もあるはずのないようなところへは、わたしは行かないで、最大の親切とわたしが自負するところのものを、そこへ行けば、各人に個人的につくすことになるような、そういうところへ赴いたのです。つまりあなたがた一人一人をつかまえて、自分自身が、できるだけすぐれた者となり、思慮ある者となるように気をつけて、自分にとっての付属物となるだけのものを、決してそれに優先して気づかうようなことをしてはならないし、また国家社会のことも、それに付属するだけのものを、そのもの自体よりも先にすることなく、その他のことも、これと同じ仕方で、気づかうようにと、説得することを試みていたのだ。すると、このようなことをしてきたわたしは、何を受けるのが至当なのだろうか。何かよいことをでなければならない。アテーナイ人諸君、もしも本当に、至当の評価を受くべきものだとすればです。しかもそれは、わたしに適当するような、そうした善いものでなければなりません。それなら、何が適当するだろうか。諸君に親切をつくしたその男は、貧乏人であり、しかもいま諸君を説き励ますのに、時間の余裕を必要としているのです。およそ、アテーナイ人諸君、この者がこのような事情にあるとすれば、市の迎賓館プリュタネイオンにおいて給食を受けるほど、適当なことはない。それはオリュムピアの競技で、諸君の誰かが、一頭もしくは二頭、四頭の馬で勝利を得た場合に、そうされるよりも、ずっと適切なことなのだ。なぜなら、その人は諸君を、ただ幸福だと思われるようにするだけだが、わたしは幸福であるようにしているのだから。しかも、馬を出場させるような人は、何も給食を必要としないけれども、わたしは必要とするのです。だから、わたしが正義に従って、至当の評価で自分の受けなければならぬものを申し出るべきだとするならば、これがわたしの申し出る科料だ。すなわち市の迎賓館における食事。

フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない

フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方 (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない

フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方 (その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。

フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その一) 「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない

 フーコー『主体の解釈学』は、世間に流布する哲学そして対話に警告を発しています。

 最も有名な哲学の言説のうちの二つ、「汝自身を知れ」、「我思う故に我あり」。自己認識と自己の存在を言っているかに見えるこれらの言説が、どれほど誤解されているかを、『主体の解釈学』は教えてくれています。そのことは、主体的な学びとしての哲学対話がいかに安くて手頃なものと見積もられているかを気付かせてくれます。哲学や哲学対話は、哲学者にとってさえ遂行することが困難な訓練なのです。哲学や対話がもてはやされ流行の兆しさえ見せる今日であるからこそ、哲学はとても難しい、哲学なんてほぼすべての人に無関係だ、という耳障りな真実を伝える必要がありましょう。それこそがソクラテスの親切心であったのですから。

ミシェル・フーコー講義集成〈11〉主体の解釈学 (コレージュ・ド・フランス講義1981-82)   ミシェル・フーコー からの引用です。

*なお、引用中に現れている右揃えの小見出しは引用ではありません。また太字での強調は著書によるものではありません。

A 「汝自身を知れ」は自己認識ではない。知る必要のある事柄に自分自身のなかで注意せよ、である。

引用

p5

この〈汝自身を知れ〉は、大変はっきりした、明白なかたちで神殿の石に刻み込まれていたわけですが、おそらくもともとは、のちに付与されたような価値は持っていなかったということ、このことは銘記しておく必要があります。エピクテトスが、この〈汝自身を知れ〉という言葉は人間の共同体の中心に刻み込まれていると言った有名なテクストはご存じですね。(これについてはあとでもう一度ふれます。)実際それが刻み込まれていた場所は、おそらくギリシアの生活の中心のひとつだったのでしょうし、そしてのちには人間の共同体の中心となったのでしょうが、ただそれが持つ意味は、哲学的な意味での「汝自身を知れ」といった意味ではありませんでした。この格言が命じているのは自己認識ではありませんでした。道徳の基礎としての自己認識でも、神々への関係の原理としての自己認識でもなかったのです。これについてはいくつかの解釈が提案されてきました。一九〇一年に『フィロログス』誌の論文の中でロシャー Roscher が提案した古い解釈では、デルフォイの掟が結局のところ神のお告げを聞きに来た人々に向けての掟であり、お告げを聞くという行為と結びついた儀式上の規則ないし勧告といったものとして読まれるべきものであった、という点が強調されていました。そしてみなさんもご存じの三つの掟については同じことが言えます。ロシャーによれば、「méden agan (中庸)」もけっして人間の振る舞いにおける倫理的、節制的な一般原則を定式化しようとするものではなかったろう、ということになります。「meden agan (中庸)」がいわんとするのはつまりこういうことです。

あまりに多くの事柄を尋ねるなかれ、必要なもののみに限定せよ

なんじ神のお告げを聞こうとして来る者よ、あまりに多くの事柄を尋ねることなかれ、有用なことだけを尋ねよ、尋ねようとする事柄を、必要なもののみに限定せよ。 二番目の掟、「eggué(保証)」が言おうとするのはまさに、「神のお告げを聞きに来るときには、守れないようなことを約束するなかれ」ということだったのでしょう。そして〈汝自身を知れ〉に関しては、これもロシャーによればということですが、「神託に物事を尋ねようとして来るときには自分自身のなかで、尋ねなくてはならない事柄、尋ねたい事柄をよく吟味せよ。そして質問の数はできるだけ少なくしなくてはならず、質問しすぎてはいけないのだから、知る必要のある事柄に自分自身のなかで注意せよ」と言おうとしているのだろう、ということになります。ずっと最近の解釈としては、ドゥフラダス Defradas が一九五四年に『デルフォイの宣伝の諸テーマ』で提示したものがあります。彼の解釈は別の解釈ですが、〈汝自身を知れ〉が自己認識の原則ではけっしてないということがここでもはっきりと提示ないしは示唆されています。ドゥフラダスによれば、これら三つのデルフォイの掟は慎重を全般にわたって命ずるものであろう、ということになります。要求においても希望においても「中庸」を得よ。また振る舞いにおいても過剰はあってはならない。「保証」についていえば、これは度を超えた鷹揚さの持つさまざまな危険に来訪者の注意を促す言葉であった。「汝自身を知れ」は、ひとが結局のところ死すべき者であり神ではないということ、従ってあまり自分の力を買いかぶって神の力と対決したりしてはならないということ、 これを絶えず覚えておかなくてはならないという原則である、というわけです。 

コメント

 太字体にしたところが、対話を哲学的にするための態度に特に関わる部分です。対話を哲学的にするためには、通俗的な意味での、哲学的な「自己認識」などのことはまず脇において、「あまりに多くの事柄を尋ねることのな」いようにするべきだ、ということが読み取れます。現代の常識人がわかったつもりになっている「汝自身を知れ」は手垢にまみれすぎています。だから、哲学対話において大切なのは「汝自身を知れ」だと対話の参加者たちに伝えてみても、全然それが守られないで対話が進行していくことが起こってしまう。それは古代の「汝自身を知れ」が具体的にどういう行為を命じていたかを知らないで、勝手に現代の人々が憶測して似非哲学的な意味を付与して満足しているのと同じです。

哲学対話には自己認識はいらない

 対話を通じて「自分の思っていることがよく分かった」程度のことで、哲学対話ができた、と勘違いする人が続出しています。こんな弊害がパンデミックにならなかっただけよかったとは思いますが、当たり前のように起こっているのを見逃すことはできません。フーコーという知の巨人が、つまり知の権威が、『主体の解釈学』といういかにも人々が手にとりそうなタイトルの著作のほとんどはじめあたりで、自己認識などというくだらないものを棄却している。自己認識などは使い物にならない代物だと言っているのです。フーコーが多数の原典や研究書を参照しながら明らかにしてくれる古代世界における「汝自身を知れ」は、通俗的な哲学対話に対する誤りを指摘し、さらには、その正しいやり方を、指南をしてくれてもいるのです。そんな書物を手に取ることもしないで、何にも知らずに対話の場にノコノコ出ていくのは、大人であったら少しはためらうものでしょう。そのためらいこそが「汝自身を知れ」で命じられていることなのです。ついでに言えば、以上のことは、子ども(と)の哲学対話には全く当てはまりません。

「汝自身を知れ」とは質問しすぎてはいないか自問することである

 強調すべきことを繰り返しておきます。哲学対話では、限られた短い神託の言葉を聞くときのように、自らが尋ねたいことは何なのか、私の問いは一体何なのか、を自問したあとで、問いを発するように、ということです。問いの数は少ないはずなのです。質問しすぎてはならないのです。不足のないようにすることなど論外であって注意せねばならないのは、何でもかんでも質問するなどという過剰のないようにせよ、ということです。そうした「行き過ぎ」を自身のうちで吟味するというのが、「汝自身を知れ」ということです。自分が知りたいことが何か分かった、というような自己認識では、全くないのです。哲学対話はそういうことをする場ではないのです。

 哲学対話において、〈汝自身を知れ〉ということが重要だとすれば、以上の意味をおいて他にありません。逆に言えば、私の問いは一体何なのかと自問する前に問いを発し、哲学対話をしたと思い込んでいる人は、「汝自身を知」らないのです。

 実は、上に引用した箇所に続く箇所こそが、フーコー自らが「私が関心を持っている主題にもっとずっと関係の深い点」と言っているものであり、「汝自身を知れ」とつがいのように取り扱われていた「汝自身に配慮せよ」(epimelei heatou)という原則について述べられています。さらに『ソクラテスの弁明』における「汝自身を知れ」のソクラテスの解釈が論じられています。これらは、哲学対話における「ケア」対して示唆に富むものではありますが、別の機会にその考察を譲ることにします。

続き (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない

続き (その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない

続き (その四) ソクラテスの弁明からの引用

きみもやってみよう!哲学ごっこ

哲学ごっこには、①ひとりでやるのと②みんなでやる2つのやり方があります。

①ひとりでできる哲学宝探し

あそびかた

どんな小さなことでも 
ふと、フシギに思ったことをそのままにしないで
正解・不正解を気にせず考えてみる。

コツ

じぶんでじぶんの答がみつかるまで、どんどん考えを進めていく。

考えてるうちに
考えがちがう方向に行っても
オッケーだよ。

おもしろい発見が
できるかもよ!

②みんなでやろう哲学キャッチボール

あそびかた

ものごとでも できごとでも なんでもいいから
ひとつのこと
について話し合ってみる。

コツ

じぶんの考えをひとにおしつけるのではなくて
ひとの考えを聞いて
またそこから考えて
どんどん考えをつなげていく。

対戦プレイじゃなくて
協力プレイだね。

対話屋からのオススメ

以上が、先に紹介した本からの引用です。上の二つの哲学ごっこのやり方を組み合わせて、こんなふうに哲学対話をやってみてはいかがでしょうか。

みんなで哲学宝探し

正解・不正解を気にせず、みんなが不思議に思っているひとつのことを、考えてみる。

ひとりで哲学キャッチボール

これまで考えてきたことを今の自分におしつけないで、今の自分の考えを聞いて、そこからまた考えていく。

対話屋からのアドバイス

最後に、こどもとおとなのみんなに対話屋からのアドバイスです。

こどものみんなへ

簡単だけど、やってみると意外とすごく難しいので、何度も根気よくチャレンジしてみましょう!

おとなのみんなへ

全く簡単ではなく、想像を絶して難しいので、一度覚悟してからチャレンジしてみましょう!

人生について哲学は何を語りうるか 『哲学の教科書』からの3つの引用

「人生は一人で悩んでいていいんだ。人生の話なんて誰ともしないで、一人で考え続ければいいんだ」。それを教えてくれるのが哲学の魅力であり、哲学の先生に期待してよい(唯一の?)徳であるように私は思います。

ですが、最近ではこんな著書があるそうです。

驚くべきタイトル

実はこのタイトル『哲学の先生と人生の話をしよう』はとても驚くべきものです。多分そんなことを知っている人はいまや少なくなっているのでしょう。とくに若い世代のほとんどの方は、このタイトルをみて驚くことはないのかもしれません。それがまた実は驚くべきことなのです。

大森荘蔵

驚く理由というのは、「東京大学教養学部の哲学者」といえば、30代前半の私ですら真先に思い浮かべざるをえないのは大森荘蔵だからです。「自分の問題を自分で考え続ける」ことだけが哲学だと言い始めた人のイメージが先行してしまい、「哲学の先生と人生の話をしよう」なんてのは想像もできないくらいなのです。だから、このタイトルは30代以上の人々にとっては実に衝撃的なタイトルだと思います。

とはいえ、冷静になってみると、時代がかわったということなのでしょう。30代前半にしてこれほどおじさん臭い思いを持つとは…。誠に残念でございます。

古典を一人で読んで一人で考え続けるのに忙しい私なのですが、いずれ暇なときに上記の著作を読むかもしれません。その予習として、その昔大いに読まれた『哲学の教科書』の「哲学は人生論ではない」の説から3つほど引用いたします。ほんのちょっと前の哲学者たちがどんな人だったか少しはイメージが湧くのではないでしょうか。

中島義道『哲学の教科書』からの引用

中島義道『哲学の教科書』講談社1995年第一刷 
第2章 哲学とは何でないか 第4節 哲学は人生論ではない

いかなる哲学もいかに生きるべきかを教えない

「いかに生きるべきか」を教えるのが哲学である、と信じている人がいるようです。しかし、いかなる哲学といえども直接それを教えることはできません。

p93

自分の行為に照らしながら丹念にその意味を検討してゆくこと

しかし、私が読者諸賢にお勧めすることは、こうした哲学書を読破することではなく、むしろ日常生活を振り返って「よい」という言葉の使われ方に敏感になること、そして自分の行為に照らしながら丹念にその意味を検討してゆくことです。それが「哲学」なのであり、とするとそれがいかに「人生論」とかけ離れているか、お分かりになると思います。
 むしろ、人生論は一般にこうした「言葉遊び」を嫌うように思われます。われわれは、人生論に、こうした回りくどい「無意味な観念の遊戯」を飛び越えて、ただちに幸福を感じさせてくれる・生きる勇気を与えてくれる・絶望から救ってくれる言葉のほとばしりを期待します。人生論の著書も、自分の生きざまから直接にじみ出たごまかしのない言葉が、少数ながらある人々の心に訴えかければそれでよいと考えている。とすれば、それが哲学でないことは自明のことです。

p98

哲学は人生そのものに対する懐疑や不快や絶望のために自殺できるほどの甘えた思い込みではない

 かくして、死んだ人の気持ちは最終的にはわかりませんが、青春のさなかで、「人生そのもの」に対する懐疑や不快や絶望のために、つまり抽象的な理由で自殺を選ぶことは、「いかに生きるべきか」という問いに対して、性急に一つの回答を求める態度と表裏一体をなしており、哲学の営みとはまっこうから対立します。哲学とは、こんな甘えた思い込みではない。それは、生きることそのことが切実なテーマであることを知ること、人生の疑いのない虚しさや残酷さを直視して、どこまでも倦むことなく「どういうことなのか」と問い続けることです。「自殺」はそれを中断する暴力です。さきほども言いましたが、充分考え抜かれた自殺はありえない。それは思考の停止であり、すなわち哲学それ自身の否定なのです。

p102

まとめにかえて二つの注目点

さて、まとめるべきことはありませんが、ぜひとも特別に注意を払ってもらいたい点を二つ上げておきます。

  1. 哲学は人生を直接教えることはできない
  2. 哲学は人生の虚しさや残酷さについての性急な答えを求めず、どういうことなのかと問い続ける

一つ目の点は哲学のもつ特有の否定性と難しさに関わることでしょう。それとともに、カントとショーペンハウアーの間で議論されたことから著者が言うところの「哲学は知識に限定して学び教えることができる」という謙虚な哲学者の姿勢につながっています。

そして第二の点は、哲学対話との深い関わりのある問いであり、これからも考え続けるべき問いでしょう。

さて、ステイホーム イン ゴールデンウィークに、人生について哲学しうるかどうか、一人で哲学してみてはどうでしょうか。