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対話の金銭問答その一

問い

何にも役に立たないと思われている対話になぜ人々が金を払うであろうか。

答え

なぜなら対話それ自体に価値があるから。

また、対話は何の役にも立たないのではなくて、全ての役に立つ。

問答についての補足

対話を娯楽と置き換えて考えてみる。

人々が対話することにそのものに価値があることを認めてくれればお金を払ってくれることは不思議ではありません。対話を他の娯楽に置き換えて考えてみれば明らかでしょう。映画やスポーツは何かに役立つのではなく、それ自体で価値をもっているから、人々はそれにお金を出して見に行ったりやってみたりするのです。対話も、対話することに価値があるということが人々に知られれば、お金を払ってまで対話したいという人がいるのは自明です。対話する場や環境が特別に備えられなければならないとしたらそれはなおさらでしょう。草野球をするのだって、グローブやユニフォームなどの道具を揃え、人々を集め、さらには野球のできる場所を借りる必要があるのですから。

対話を健康と置き換えて考えてみる。

対話を娯楽と置き換えるのが不自然であるのならば、対話を健康や体力と置き換えてみてみるとよいでしょう。健康であればこそ、様々な運動をすることができたり、遠くに出かけることも、美味しいものも食べることができます。しかしながら、健康が害されれば、ある限られた運動しかできず、行動範囲は狭められ、食事制限もしなければなりません。こうしたことから、健康は、健康そのもので価値があるということが認められています。対話は、そうした健康や体力のようなものです。

補足への補足

ところで、以上のことに関連してこんなことをよく聞きます。

1.1 対話することが他者のケアに、問題解決に、思考力の養成に、美的鑑賞に役立つとかいうのなら、対話をするのにお金をだしてまでするが、そうしたことに役立ちそうもない対話になんかお金を払うまでのことはない。

さらには、

1.2 対話するだけなら学ばなくたってできる。対話するのは簡単なことなのだから。そんな誰にでもできることをわざわざお金を払ってまでする必要はない。

これらについて、少し考えてみることにします。

対話なんぞにお金を払ってするまでのことはない(1.2)への反論

1.2のもとになっているのはこんな考えです。すなわち、対話が単純でもっとも基礎的なものであることから、それを誰でもいつでも任意の目的でどんな場面でも行うことが、誰に教わらなくてもできる。それゆえに、そんなものにお金を払うまでのことはない。至極あたりまえのように聞こえる見解ですが、救い難い無知に陥っていることを告げてあげなければなりません。しかし、あまりにも深い無知に陥っているので、説得するのが無駄ではないかと私は思います。

まず、ほとんどありえない場合を想定します。1.2のような見解を持つ人で、本当に対話ができる人という想定です。その人は、たしかに対話をするのにお金を支払う必要はない。しかもその人に対して私が改めて説得することは全くない。ですから対話について何であれ、こちらが説明するのは、もちろん無駄です。

けれども、1.2のような見解を持つ人は、対話することが実はできていない人です。その数は実はあまりにも多い。私の見る限りご老人方や他人を動かす言説を心得ている人々など、話を聞くことができないほぼすべての人々は間違いなくこの人種です。その人々たちにこそ、対話は必要であろうと思うのですが、その人々に直接対峙して対話の重要性を説くことは、もはや不可能です。というのも、度はずれな勘違いつまり並外れた無知が、もはや対話が必要であるという対話をすることすらも、拒絶しているのだからです。

対話の必要性を説くのは無駄であるばかりか有害である

 そのような人々に対話の必要性を説くのは無駄であるばかりか有害であることを知ることのほうが圧倒的に重要かもしれません。というのも、対話の重要性を少しばかりは知っている人に対話の知識や技術や体験の場を提供するのにも時間や労力がかかるのですから、無知な人々に対して優先的に対話の必要性を説くならば、限られた時間や労力が、対話を必要とする人々へ届けられないことになってしまうでしょう。

 ところで、無知な人々も、権威ある人や数多くの人々が繰り返し対話の重要性を説けば、説得される可能性はある。ですがそれは優先事項ではありません。まずなすべきことは、対話の必要性を感じている人に対話を届け、必要性を全く感じていない方々については、放っておく、放っておくのも難しければ排除しておく、ということでしょう。

対話なんか役に立たないのだから金を払う必要はない(1.1)への反論

対話は悪用すら可能な万能薬である

 対話が役に立ちそうもない、ということに関しては、まったくの間違いであることを先に言っておきましょう。むしろ、対話はもっとも基礎的なもので、何にでも役に立つ万能薬だとさえ言っていいくらいのものです、悪用すら可能な。ですからその点で、先ほども言いましたが、対話は健康のようなものです。健康であるから、たとえば仕事ができ、趣味ができ、運動ができ、買い物にも行け、旅行に行ったりすることができます。しかし、健康でなければこれらのことが制限され、あるものは全くできなくなったりします。健康が少し害されれば運動することは制限され、健康が完全に害されてしまうと運動することが全くできなくなってしまいます。対話もまたそういうものです。対話が全然できなければそもそもコミュニケーションも自分で考えることもできなくなりますし、対話がほんの少ししかできないとなれば、他者のケアもそれほどの程度でしかできず、問題解決も限られた範囲でしかできませんし、美的鑑賞も貧寒なものしかできない。ともかく、我々は実は社会を根底的な部分で対話によって構成しているので、対話ができなかったり制限されていると、社会活動の様々な場面で不都合や不自由が出てくるのです。

 ですから、対話は何かの役に立つというよりはむしろ、何か我々の不都合や不自由な社会活動があるとすれば、それは対話が機能していないとか対話が制限されているとか対話が不全を起こしている、と考えるべきです。にもかかわらず、そのことを我々は知らないのです。我々は普段は知らないままに、様々な社会活動を行っていて、いろいろな問題に巻き込まれては何らかの苦し紛れの解決を余儀なくされています。役に立つばかりのものが要求されているために、役に立たないものを蔑ろにし、苦しんでいたり悩んでいたりするわけです。その蔑ろにされているものが、対話であり問いなのです。

 何かの役に立つということを、とりあえずは一旦脇に置いて、問いや対話を取り戻そうとすることが必要なのです。そのことをするのに対価を支払ってまでするのはあたりまえでしょう。その道の専門家に見てもらう必要があるからです。その道の専門家はすでにそれに時間や労力を注ぎ込み、必要としている人々に届けるための知識や技術や経験をもっているですから。

医者は有用性を度外視し、患者に健康を取り戻す

 ここでも健康と対話は同類です。健康を作り出すのは医者ですが、医者はとりあえずあなたがどんな活動するかなぜ健康を必要としているのか、健康を何のために役立てようとしているかは脇に置いた上で、あなたを健康にするようにする。それが医者の専門であり医者の果たすべき職務だからです。対話もまた同じことが言える。医者の立場となるのは対話屋ですが、対話屋は、対話をあなたがどのように生かそうとしているか、何のために用いようとしているか、なぜ対話を必要としてるのか、ということを、とりあえずは一旦脇に置いて、対話そのものを提供することに努めるのです。それが、対話屋の職務です。これが、対話屋が、対話そのもののを提供することができる、ということです。そして、対話そのものが価値をもっているとはそういうことです。

 対話することそのものに価値を認めず、それに対価を支払う必要がないと考えているなら、それは健康になるのには自分で健康管理をしっかりし病気にかかっても民間療法でなんとか治そうとするというのに似ていると思います。また対話を得るのに安ければ安いほどよく最低限の支払いしかする気もないので簡単に手に入るものでよいと考えるのは、ワケあり物件を探して住もうとするのに似ているのでしょう。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

対話の金銭問題

対話の金銭問題とは次のようなものです。

第2回新宿哲学カフェ 2020/02/24

はじめての人のための哲学カフェ です。

対話が苦手な人、対話なんてしたくないと思っている人、哲学なんて関係ないと思っている人たちに向けた、哲学カフェです。

そのほかにも、こんな方々のご来店をお待ちしております。

  • これまでに哲学カフェ・哲学対話に参加したことがない人
  • 哲学や対話という言葉も聞いたことがない人
  • 哲学カフェって何をするところ?と思っている人
  • 哲学対話って何か役に立つの?どんないいところ、悪いところがあるの?と思っている人
  • 哲学対話って何?と思っている人
  • 哲学対話を体験するよりも前に、どんなものなのか説明してほしい人
  • 哲学カフェには参加してみたいけど、知らない人がたくさんいるところには行きたくない人
  • 哲学対話は面白そうだけど、経験者ばかりが参加していそうなところに行くのは不安だと思っている人
  • なんとなく実践にはじめて参加する勇気がない人

注:いわゆる哲学カフェとはちょっと違います。違いについては「新宿哲学カフェ」についてのページをご覧ください。

概要

日時2020/02/24 月曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
いつもの
メニュー
哲学カフェとは?
対話とは?
問いとは? など
日替わり
メニュー
対話の金銭問題について
料金500円/30分
(子ども、学生無料、SNSのリアクションなどで無料の特典あり。)

新宿哲学カフェについて詳しく知りたい方は、是非、こちらをお読みください。もちろん、お読みならなくとも、新宿哲学カフェにはお越しいただけます。

皆様の初めての哲学カフェへのお越しをお待ちしております。

店頭に張り出した告知です。

お問い合わせはこちらから。

第1回新宿哲学カフェ 2020/02/20

はじめての人のための哲学カフェ です。

対話が苦手な人、対話なんてしたくないと思っている人、哲学なんて関係ないと思っている人たちに向けた、哲学カフェです。

そのほかにも、こんな方々のご来店をお待ちしております。

  • これまでに哲学カフェ・哲学対話に参加したことがない人
  • 哲学や対話という言葉も聞いたことがない人
  • 哲学カフェって何をするところ?と思っている人
  • 哲学対話って何か役に立つの?どんないいところ、悪いところがあるの?と思っている人
  • 哲学対話って何?と思っている人
  • 哲学対話を体験するよりも前に、どんなものなのか説明してほしい人
  • 哲学カフェには参加してみたいけど、知らない人がたくさんいるところには行きたくない人
  • 哲学対話は面白そうだけど、経験者ばかりが参加していそうなところに行くのは不安だと思っている人
  • なんとなく実践にはじめて参加する勇気がない人

注:いわゆる哲学カフェとはちょっと違います。違いについては「新宿哲学カフェ」についてのページをご覧ください。

概要

日時2020/02/20 木曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
いつもの
メニュー
哲学カフェとは?
対話とは?
問いとは? など
日替わり
メニュー
A 哲学カフェの日替わりメニューとは何か。
B 西洋哲学を学ぶ魅力は何か。
料金500円/30分
(学生無料、SNSのリアクションなどで無料の特典あり。)

新宿哲学カフェについて詳しく知りたい方は、是非、こちらをお読みください。もちろん、お読みならなくとも、新宿哲学カフェにはお越しいただけます。

皆様の初めての哲学カフェへのお越しをお待ちしております。

店頭に張り出した告知です。

お問い合わせはこちらから。

とりわけ西洋哲学の伝統を学ぶ意義は何か

しばしば以上にほとんどの場合、官庁や病院や大企業でさらにはともかく誰かに雇ってもらうなどという仕方であくせく働いていては、クソ真面目なりすぎて哲学ができなくなると感じる。それもあって私は自営業・自由業にこだわっている。

忙しい日々のうちに湧いてくる疑問や人間関係での悩みや組織への反発は哲学の材料としては格好のものではあろう。しかし、それ以上に、哲学にとって本質的なことをクソ真面目さが害してしまうように思う。

西洋哲学の伝統のうちには遊びやふざけがある

勤勉さや真面目さはたしかに哲学にとって不可欠である。勉強もしなければいけないし訓練もしなければならない哲学には必須のものである。けれども、だからといってふざけてはならないわけではない。それどころか、ふざけや遊びこそが哲学にはぜひとも必要なのだ。それがなくなってしまっては哲学が宗教や神学になってしまうだろう。哲学が宗教や神学と違って固有のものたりえているのは遊びとふざけが内在しているからだ。少なくとも私が西洋哲学の伝統から常に感動と驚嘆とをともなって学ぶところは、真剣にふざけることができるというところだ。これが子どもの哲学とギリシア哲学には著しいということを付け加えておきたい。

形而上学の問いは人を救わないが、だから何なのだ

仏典のある一説に次のようなことがあるのを知って、宗教とは異なる西洋哲学が私にとってとくに魅力的な理由がふと分かった気がした。出典を明記できないので正確さを欠くのだが、形而上学の問題、なぜ世界が存在するのか、精神だけでなく物質の世界があるのか、という問いを考えところで救われることはない、とブッダは言ったらしい。なるほど救いを求めるならばそんなことを問い続けるべきではないかもしれないが、救いなんかよりも、世界がなぜあるのかの不思議さを問うほうが圧倒的に偉大ではないか、と私は思った。西洋哲学など学ぶ「意義」は、私にはもちろんない。だが、西洋哲学を学ぶ魅力はたしかにある。それは、不思議さに対する感度と執念とそれら全てを含んでもなおのこる遊びやふざけである。

西洋哲学を学ぶ「魅力」が以上のようなものにあると信じている私は、それゆえ、教育者が西洋哲学を学ぶ意義があるとすれば、私が感じている魅力にこそあるだろうと思うわけである。官庁や病院や大企業と同じ類のものである日本の教育機関で、たとえば儒学や仏教を学ぶことによっては、遊びやふざけがクソ真面目さによって駆逐されてしまう。だからこそ、西洋哲学を学ぶことによって、真剣さ真面目さと両立するどころか真剣さや真面目さに支えられた遊びやふざけがあるの知る意義があろう。

スコレー、ディアゴーゲー

学校の語源がスコレーすなわち間暇であることが、それをいくらか示しているとは言えないだろうか。スコレーと言われている箇所がアリストテレスの形而上学にあったと思って探してみたが見つからなかったので勘違いだったかもしれない。しかし、次の箇所でも、上に言ったことが十分に現れていることが分かるだろう。

それゆえに、最初に、常人共通の感覚を超えて、或るなんらかの技術を発明した者が、世の人々から驚嘆されたのも当然である。それも、ただたんにその発明したもののうちになにか実生活に有用なものがあるからというだけではなくて、むしろそれを発明したほどの者は知恵のある者であり、他の人々とはちがって遙かに優れた者であるからという理由で、驚嘆されたのである。だが、さらにいろいろの技術が発明されてゆき、そしてその或るものは実生活の必要(アナンカイア)のためのものであり、他の或るものは楽しい暇つぶしディアゴーゲー〔娯楽〕にかんするものであるが、これらの場合にいつでもひとは、この娯楽的な術の発明者の方を、前者のそれよりも、その認識がなんらの実際的効用をもねらっていないからという理由で、いっそう多く知恵ある者だと考えた。そこからさらに、すでにこうした諸技術がすべてひと通り備わったとき、ここに、快楽を目指してのでもないがしかし生活の必要のためでもないところの認識エピステーマイ〔すなわち諸学〕が見いだされた、しかも最も早くそうした暇のある生活を送り始めた人々の地方において最初に。だから、エジプトあたりに最初に数学的諸技術がおこったのである。というのは、そこではその祭祀階級のあいだに暇な生活をする余裕が恵まれていたからである。(岩波文庫 形而上学(上)p24 出訳)

アリストテレス形而上学981b10 あたり

さて、以上のことは私一人で考えたことでは実はないのは言うまでもない。だが、一昨日に提起された諸々の問いに対する一つの回答でありうるとみなしているのは私であるということを申告しておく。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

同じ素人であるところの、子どもと哲学するとは?老人と哲学するとは?

昨日は子どもの哲学のワークショップに午後に行き「子どもと哲学するとは?」、そのあと夜には哲学塾カントに行き「老人と哲学するとは?」を問うことになった。後者が前者を照射するその仕方はなかなか面白いものでありうる。

Sharing experiences in philosophy for/with children in Asia 

https://www.facebook.com/events/232952934398689

闘いの対話か配慮の対話か

ワン氏の発表およびその応答の中で最も印象的だったものを一つ挙げるなら次の点である。西洋哲学が培ってきた「闘い」としての対話であると理解しているワン氏は、その批判として「傾聴」という対話がありえ、我々アジア人はそれに適しているだろう、ということであった。これに対して、河野氏が応答して、ある意味で傾聴することに過度になっている我々にとっては、「闘い」としての対話を学ぶべきであろう、と言ったのであった。なぜこれが私にとって印象的であるかは、中島義道が哲学の西洋哲学の伝統を学ばなければならない、と(あえて)主張することの趣旨であるからだ。

この点は、ワン氏のあとに発表した清水氏の発表の際に私は指摘したかったのだが、なんというか、中島義道を代弁するようになりそうな気がして、尻込みしてしまった。そんなことを言うと知的権威に寄り添うことでセーフティを害するとその場では思ってしまったが、あとで考えてみるとそんなことはなかったと反省している。まさにこういうとき、「闘い」としての対話は、私にはまだまだ身についていないのだと痛感する。

対話における時間の流れ

清水氏の発表の個々の論点については書ききれないのでここに書くのはやめておく。一つ気付いた点を指摘しておく。それは、発表が二言語でなされることによって「ゆっくり」な対話が出来たのではないか、ということである。(https://twitter.com/shogoinu/status/1228839874230276096 ) 確かにだらだらと長くなったかもしれないが、その間に、少なくとも私は繰り返し中心にある問いに立ち戻ることができた。だから、私から見れば、的を得ていないと思われた問いや発言が、時間とともに流れ去っていき、問いは自然と洗練されていったのであった。ゆっくり話す、ゆっくり考える、と言われる対話は、こういう仕方でも実現できるのか、と思った。つまり清水氏は時間を味方につけていたわけなのだ。

休み時間には「対話屋ディアロギヤ」のショップカードを渡すなど営業活動をした。学会やワークショップで営業活動をするのは、ちょっと気が引けるなあと思いつつ、やれることは何でもやるべきだろうと思いつつ、やったのであった。

老人たちの対話

さて、そのあと、当の中島氏の主宰する塾「哲学塾カントhttp://gido.ph/」の講義を受けに行った。この日はHiという名の講義が19.30からあり、カントや対話についての研究をしている檜垣良成(筑波大学のウェブページ)氏がその講義を担当している。講義の題目は主に、西洋哲学史における実在(レアール)とは何か、ということなのだが、講義の形式は実は「講義」ではなくて、対話することが許されている、哲学塾カントの講義の中でも少し特別なものである。

そこに出席しているのは、子どもとは真逆の、ほとんどが老人であって、発言するのも老人ばかりである。なるほど20代や30代の人も参加はしているがそういう人々はほとんど発言しない。思うに子ども哲学などを知っていたらすでにこの時点で何かが改善すべきであるとも思うのであろうが、なぜ老人たちが(誠に軽蔑的な書き方で失礼!)若い人々の目を弁えず、それもど素人の哲学的知識や対話技術でもってああだこうだと話そうとするのかを観察し分析するのには、格好の機会であることは言うまでもない。私としても、こういう場所がなくなっては困ると切に思っている。(本当に!)

哲学的ポイントを見事に外す老人

具体的には、バークリーの「人知原理論」の初めのほうの数説を読んだ上で対話をした。檜垣氏は、バークリーが物質を否定する論理を伝えようとしたわけだが、ここで私にとってはとても面白い現象が起こった。檜垣氏がバークリーの言っていることの意味は分かるか、この哲学的ポイントは分かるか、と問いを投げかけたところ、揃いも揃って老人たちが皆何らかの異を唱えた。彼ら老人は実は哲学や科学の知識を持っている人々なのであって普通の意味での知識人なのであるが、少なくとも私から見て、バークリーの哲学的ポイント、そしてそのことを伝えようとしている檜垣氏のポイントを、全く見事に的を外していた。檜垣氏は、それゆえに、何度も同じことを繰り返し説明し、質問があるたびに、その質問者の言葉遣いを訂正したり質問者に理解してほしい点を質問者の言葉を使ってまでも説明したのに、それでも、非常に重要な哲学的ポイント、つまり物質が不活性であることをなぜバークリーが主張しているのか、という点が、美しいぐらいに伝わっていない。挙げ句の果てには、ずっと黙って聞いていた中島氏が痺れを切らして、「議論が活発になるのはいいが、どうしてそんな単純な哲学的ポイントがこんなに伝わらないのか」と切り出して対話は大混乱になって時間が来て終了した。

擬似修論指導?

ある意味では対話に極度に真摯でありとても親切な中島氏と檜垣氏の二人は老人たちと私を居酒屋に連れていって、あたかも修論の指導かのように、哲学の対話はこうするのだああするのだ、こうじゃいけないああじゃだめだと書い言っていた。先輩や先生にこう指導された、あんなことがあっただからこうするべきだなどと渾々と説いていた。いや、一体この場は何なのだろう、どういう席なのだろうと、私は終始不思議な夢の心地がしたが、もちろん楽しんだ。そして、ここでは無礼になることを断って私の問いとするところも話した。

子どもは説明抜きに射当てるが、老人は全てが与えられてもなお射損なう

私の問いとするところとは、一番はじめに書いたことだ。飲み会では老人たちに向かって次のように言った。「子どもはむしろ説明抜きに、哲学的なポイントや問いを言い当てるのに対して、老人たちはどうしてむしろ全ての説明が与えられてもなお、哲学的なポイントや問いを言い当てることができないのか」ということだった。中島氏と檜垣氏は、「そう、それなのだ。それが分かりゃあ苦労しない」くらいなことを言っていたのだが、老人たちは、「何のことでしょう、はて」という顔をしていた。いや、本当に謎だ。なぜ哲学の問いは、人々をこういう仕方でわけてしまうのか。

とはいえ、中島氏や檜垣氏、そして私のような若造にこれほど無礼なことを言われてもなお、何か哲学の論ずるところに関心を持ち続けているこれらの老人は、やはりとても稀有な存在なのであろうといたく感動もする。これは皮肉でもあるのだが、そういう老人たちを尊敬している。実際、他の老人といえば、こんな無礼には耐えられないし、そもそも話を飲み会にまでいってこんな嫌な話など聞くなどということはないのだから。

これは檜垣氏も中島氏も言っていた。とくに中島氏は、「あなた方のような人々はたくさんいますが、実際には哲学に触れもしない。それなのに、あなた方は哲学に何かあると思って塾に来たり哲学書を読んだりしている。哲学なんかやめて社会学でも何でもやればいいけど、哲学してもいいんですよ。」みたいなことを老人たちに言い放っていた。いつものツンデレの炸裂であった。さすがだった。

何かまとめがあるわけではない。ただ、言っておきたいのは、同じ哲学の素人であるところの「子どもと哲学するとは?」の問いと、「老人と哲学するとは?」の問いは区別しながら、しかし切り離されずに問われるべきではないか、と思ったのだった。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

新宿哲学カフェをはじめるにあたって

はじめに

普通の哲学カフェでは全然ないけれども哲学カフェと名付けることにしたこの新宿哲学カフェについて、少しくらいは説明しておこうかと思いますが、その前に、とても簡単なことであるにもかかわらず、おそらくはほとんど実現しそうにもない私の希望をお伝えしておきます。

まず、以下のものを最後まで読まれる方は安心して新宿哲学カフェにお越し下さい。途中まであるいははじめのあたりまでしか読まれない方も、最後まで読まれそうな方に、この記事の存在を知らせてあげてください。そして対話屋ディアロギヤを知ったすべての人々は、哲学には縁もなさそうな、対話なんてものがあること知らない人々に、対話屋なんてものがあるらしいということを、知らせてください。

新宿としての新宿哲学カフェ

新宿哲学カフェは、哲学が新たに宿る、哲学カフェである。

 まずは、「新宿哲学カフェ」の名前についてです。新宿という地名は、ウィキペディア雑学ネタ帳などでは、甲州街道の宿場町に因んでいるようです。その新宿に店を構えたことに因んで、「新宿哲学カフェ」を名乗ることにしたのですが、新宿は「新たに宿る」とも読めることに気づきました。新たに宿る哲学カフェ、とは私が新宿哲学カフェに託している何らかのことを言い当てている気がします。

 哲学や対話はいまや大学や研究機関のうちにあるだけのものではなく、街角で行われる市民に開かれた活動として、世間に知られ注目を集めるというほどのものにまでなりました。一方で歓迎すべきだと思っていたその事実は、同時に他方で強烈な違和感をも催させ、ある種の問いを私に投げかけたように感じます。その問いとは、新たに哲学が宿るのはどこなのか、ということができます。

 大学や研究室では新たな哲学はむしろ摘み取られ枯れてしまうことはしばしば指摘されていることでした。では、哲学カフェや対話の実践ではどうなのでしょうか。新たな哲学がそこで生まれ育つのでしょうか。残念ながら、大衆化しつつある哲学カフェやその他の実践は、新たな形で哲学を汚染するようなものにしかなっていない。たとえば教育として、たとえばコミュニケーションとして、たとえば出会いの場として、たとえばケアとして、たとえば悩み相談として、哲学や対話のもつその豊かな可能性のゆえにこそ、常に他のものに汚染され続けている。さらには、ほんのごく少数の人々だけが、そのことに問題を感じとっているにとどまるのです。

 その問題に対し、何を応答することが私にできるのかは、だいぶ以前から分かっていたことでした。自らの置かれた環境や立場だからこそ、他の人にはできない私自身の答えを常に持ち続けてきました。ですが、忙しさを言い訳にほとんど行動に移さずにいました。そこで、もういい加減に何かしなければならないと思い、自分の尻を叩くつもりで、「新宿哲学カフェ」見切り発車するに至ったというわけです。

 ところで私の本業(いや本当の副業)は新宿にある宿屋 (トーキョーアコモ)であり不動産屋 (だるまふどうさん) ですが、そこでは、はじめて日本を観光したり旅行したり、仕事や生活をはじめる人々としばしば接します。日本に来てはじめて過ごす宿や住まいを提供するからです。それと同じように新宿哲学カフェも、これから哲学や対話を自ら行なっていくであろう人々に、はじめて哲学や対話を知ってもらう宿や住まいのようなものになればよいかもしれない、と思いました。

 こういうわけで、新宿哲学カフェのページのサブタイトルを「はじめての人のための哲学カフェ」とすることにしました。

案内所としての新宿哲学カフェ

新宿哲学カフェは、哲学や対話があることを知る、哲学カフェである。

 さて、では「はじめての人のための哲学カフェ」に来た人は何をするのか。一言で言えば、哲学や対話があることを知ることです。それにつきます。

 では、哲学や対話があることを知るとはどういうことか。それは悩みや迷いや疑い驚きを、自らの問いへと昇華する活動があることを知ることです。また、そのための先達や仲間や敵や場所や書物があるのを知り、さらには、理論や実践や方法があってあなたにも開かれているというのを知ることです。

 ほとんどすべての場合、悩みや迷いや疑いや驚きといった哲学のきっかけになりそうなものを他の人に話したところで相手にもされないでしょう。他人に話すには自分で気付く必要がありますが、それはある意味でもっと難しいかもしれません。悩みや迷いを何らの自覚もなく解消してしまっているので、そのことをよく考えてみたり他人に話そうと思い至ったりしないからです。疑いを晴らそう必死になり、驚きを忘れてしまい、日々何も気付くことなく流され続けている。哲学のきっかけとなりうるのは、悩みや迷いを自覚なく解消してしまっていることに対する気付きです。また、疑いを晴らそうと躍起になっている自分を内省することです。忘れてしまっている驚きを想起することです。新宿哲学カフェに来る方に知っていただきたいのは、哲学の門の扉は、日々の気づきであり、忘れてしまっているものの取り戻しであり、その継続だということです。

 新宿哲学カフェのホスト(番頭)が、お迎えするお客様のためにすることは、話を聞くことを通じて、悩みの悩み方、迷いの迷い方、疑いの疑い方、驚きの驚き方を一緒に考えることです。そして可能な限りそれを問いの形にして、その問いを自分のものとして持って帰ってもらうことです。そうすることで、哲学や対話が、あなたのために「ある」ということの片鱗が、分かってもらえると信じています。あなたのその問いのうちに哲学があることを知ってもらいたいのです。それを知ってもらえれば、たとえば他の哲学カフェに参加することも、哲学対話を実践してみることも、哲学の塾に行ってみることも、哲学書を自ら読んでみることも、普段の生活の中で人知れず対話を実験してみることも、誰に言わなくとも自分で哲学書を書いてみることも、自ずと開かれてくるでしょう。

 この意味で、新宿哲学カフェは、哲学の案内所となればよいと考えています。

避難所としての新宿哲学カフェ 

新宿哲学カフェは、いわゆる哲学カフェではない、哲学カフェである。

 ここまで述べてきたことからでは、じつはいわゆる哲学カフェや哲学対話とあまり変わるところがないと思われるかもしれません。悩みや迷いを聞くことも他の哲学カフェではやっているし、問いをだすことも、一緒に考えることも、同じではないかと思われるかもしれません。その理解は正しい。だからこそ、哲学カフェを名乗るのです。

 決定的に異なるのは、哲学対話に不要な因子をあらかじめ取り除き、対話を純化させる仕組みを用意したことです。と言っても何も難しいものではありませんが、詳しくは新宿哲学カフェのページをご覧ください。円になって対話をせず、対話に「参加する」のをやめ、対話「する」ことにしたというだけのことです。このことによって、例えば多くの人が一堂に会するさいに誘発してしまうある種の権力構造や不要な欲望を排するように努めたというわけです。あえて抽象的にぼやかして書いているこの事情についてもっと知りたい方は、以下のものをお読みいただきたいと思います。

哲学プラクティスにオジサンは必要か?https://note.com/tritosanthropos/n/ncd4acbdede98

オジサンによるオジサンのためのオジサン https://note.com/tritosanthropos/n/nd61d19647c4d

 ともかく、対話の本質に立ち返れば、一対一あるいはかなりの少人数で対話するという形式はまったくもって当然の帰結ですが、いまや哲学カフェや哲学対話といえば、多くの参加者が円になり、話したくない時に話さなくてよいがよく聞く…、という常識すら形成され始めています。そうした哲学カフェや哲学対話は、対話イベントとして行いますので、それとの区別をつけるためにも、新宿哲学カフェは、本来の対話に忠実にしたいと思うのです。

 すでに存在している哲学カフェや哲学対話が多様な参加者を受け入れることによってじつは排除してしまっている人々がいることは明らかでしょう。そのような人々のなかに、本当に哲学を必要としている人がいるでしょう。純粋な対話を目指す新宿哲学カフェは、とりわけそのような少数のひとびとのためにあるようなものです。この意味で新宿哲学カフェは、哲学を必要とする人にとっての、哲学カフェからの避難所と言えるような場所であってもよいと考えています。

遊び場としての新宿哲学カフェ

 ここまで大人に向けて、大人の大義名分のことを念頭におきながら、私にしてはあまりにも真面目くさって、新宿哲学カフェのことを書いてしまいました。おそらくは大人の目をまったく度外視するのが許されるほど、私を子どもとは誰もみなしてはくれないことくらいは自覚しています。

 しかしながら、以上に述べた全てでは語りきれそうにもない、遊びが残っています。そして、まさにこの遊びこそは、新宿哲学カフェが理想とするところであって、それを隠しておくつもりはまったくありません。

 その遊びとは、人知れず哲学をし、それをほんの少しの人になら話してもいいかもしれない、同じような人がいたらその人の話を聞いてみてもいいかもしれない、と思っている<子ども>を探すことだと言うことができるかもしれません。哲学カフェは本来そういう子どもが遊びにやってくるところであろうと私は思っていたのです。私はいつもそうだと思って哲学カフェに行っていたのです。でもそうではなかったので、自分で作ろうと思ったのです。

 そんな理想の場所が実現するには、すでにいやおうなく存在する大人の事情をことごとく考慮し慎重に取り扱う必要があるという点で時間と努力がこれからも不可欠でありましょう。ですが、もうすでにそんな遊び場が作られようとはしている、ということくらいは、知っておいてはもらいたいのです。そして、そんな遊び場を作る人が他にもいてくれたら、と思ったりもします。

かくれんぼとしての新宿哲学カフェ

 終わりに言っておきたいのは、はじめに言ったことの繰り返しですが、終わりまで読んでいただいた方は安心して新宿哲学カフェにお越し下さい、ということでしょう。そして、ともかくこの終わりの部分くらいは目にした方のなかには、あれこれの点で同意もできなければ共感もできず前提もとうてい受け入れることはできないし反論する気もならないという人が、たくさんいるはずでしょう。そういう人でも、人知れず哲学している誰かがいてもおかしくはない、と一度は思ったことがあるのではないでしょうか。人知れず哲学している誰かがもしもあなたであったなら、もしも子どものあなたであったなら、と問うてみてください。

 新宿哲学カフェは、そういうわけで、人知れず哲学している子を見つけるかくれんぼみたいなものかもしれません。

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The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

第0回新宿哲学カフェ 2020/01/01

概要

日時2020/01/01 水曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
いつもの
メニュー
哲学カフェとは?
対話とは?
問いとは? など
日替わり
メニュー
なぜ毎年お正月は来るのに、毎年めでたいのか?
本当に、毎年めでたいのか?

その他

はじめまして。新宿哲学カフェ、はじめました。新年なので、初めてみました。

新宿哲学カフェは、初めての人のための哲学カフェであり、普通の哲学カフェとは違います。対話が苦手な人、対話なんてしたくないと思っている人、哲学なんて関係ないと思っている人、そんな人たちのための、哲学カフェです。

新宿哲学カフェについて詳しく知りたい方は、是非、こちらをお読みください。もちろん、お読みならなくとも、新宿哲学カフェにはお越しいただけます。

皆様の初めての哲学カフェへのお越しをお待ちしております。

第1回新宿哲学カフェ 2020/02/20

概要

日時2020/02/20 木曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
いつもの
メニュー
哲学カフェとは?
対話とは?
問いとは? など
日替わり
メニュー
A 哲学カフェの日替わりメニューとは何か。
B 西洋哲学を学ぶ魅力は何か。
料金500円/30分
(学生無料、SNSのリアクションなどで無料の特典あり。)

その他

はじめまして。新宿哲学カフェ、はじめました。新年なので、初めてみました。

新宿哲学カフェは、初めての人のための哲学カフェであり、普通の哲学カフェとは違います。対話が苦手な人、対話なんてしたくないと思っている人、哲学なんて関係ないと思っている人、そんな人たちのための、哲学カフェです。

新宿哲学カフェについて詳しく知りたい方は、是非、こちらをお読みください。もちろん、お読みならなくとも、新宿哲学カフェにはお越しいただけます。

皆様の初めての哲学カフェへのお越しをお待ちしております。