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哲学を必要とする時代の「哲学」とは?

哲学を必要とする時代の「哲学」は幸福である、と私は皮肉をもって述べたいのですが、そのことを再度、かつて書いた記事を少し書き換えることで、主張したいと思います。

はじめに:自己批判の欠如している読者に対する警告

はじめに言っておかねばならないのは、インタビューされた哲学者についてああだこうだと私がケチをつけているなどとは決して誤解しないように、ということでしょう。そうではなくて、聞きたいことしか聞こうとしない大衆の愚かな耳に念仏を唱えてやろうと私は思っただけなのです。ですから、以下のものを読もうと試みる奇特な方は、批判されているのが実は自分であるということに気づく、もっと奇特な能力を持っていなければなりません。これがもっとも厳密な意味での「自己批判精神」であることは、ご存知であると今後とても役に立つかもしれません。

さて、今、「そんなことが私にはできるのか?」「私は自己批判精神を持っているか」と自問し、「イチ、ニ、サン、シ、ゴ」と数えながら、自分が過去に行った具体的行為を一つでも挙げてみて、心に描いてみてください。そして、心に描くことができたらばいいのですが、もしも心に描くことができなかったならば、あなたは自己批判精神を全然持っていません。そういう人には、以下に書いていることはとてもふさわしくないものでありますので、これ以上の時間の無駄をしないためにも、読むのはここでやめておいたほうがよろしいでしょう。

問題の問題(「問題」問題)

引用1
「人間とは何か」とか「時間とは何か」とか、哲学は漠然とそんなことを考えているんじゃないんです。哲学は常に問題を考えているんです。突きつけられた問題に応答しようとしている。

引用2
デカルトは問題に答えたのです。だから哲学というのは問題に対する応答であり、その副産物として、時折、真理が発見されると考えれば良いと思います。大切なのは真理じゃなくて問題なんですね。

引用3
僕が哲学を教える時には、1人の哲学者がどういう問題にぶつかって、どういう風に葛藤して、どういう風に答えを出したかを体感してもらおうと思って授業したり本を書いたりしています。そうすると、突然、哲学が生き生きと具体的に見えてくる。

引用4
3つあげられます。1つは立憲主義の問題、国家の問題です。
2つ目は権利の問題、社会の問題です。
そして3つ目は主権の問題です。

「問題」という言葉がこれほど多くの意味でこうも安易に用いられるのに、驚きませんでしょうか。いい加減、すべての哲学者が、問題ってなんのことなのか、反省すべきであろうと、私は思います。いいかげん、問題を問題にすべきではないでしょうか。

「問題」にも「問題」があるということを忘れてしまって、哲学なんてどうしてできるでしょう? 「問題」にある問題をいとも簡単に超克してしまうのが、哲学者なのでしょうか?

「一人の哲学者がどういう問題にぶつかって、どういう風に葛藤して、どういう風に答えを出したか」

なんてもう、あまりに聞き飽きたことではないでしょうか?この種の言説を聞き足りていない人が、いるとは私には思われません。

哲学者の固有の「問題」とか、その時代の「問題」とか、こうした諸々の「問題」、ということがまさに問題ではないか、とこれまで思わなかったことの方があまりに不思議になってきませんでしょうか?不思議なってこないのでしょうね、だって、私が問題のことを問題にしていると言ってもどうも全然ほとんど誰にも通じていないようだからです。それが通じないんだから、やっぱり問題の問題を易々と乗り越えて知ったつもりになっているのではないか?と疑わざるをえません。いや、これこそが、古代の哲学が無知を問題とすることの証拠なのでしょうね。そのことを、自問せざるをえません。

パレーシアに関する誤り

引用5
誰もしていなくても、おかしいと思ったら、おかしいと言う。間違っていることを目にしたら、間違っていると声を上げる。それが勇気です。古代ギリシアには「パレーシア」という言葉がありました。これは思っていることを素直に口にするという意味なんですが、今はパレーシアが本当に行われなくなっている。義の心と言ってもいいのですが、勇気を伴う実践の必要性を訴えたいと思っています。

フーコー(は「問題」の、歴史における構成を問題にした人としてあまりに有名です)の著作を読んだことのある人ならば、今はパレーシアが行われ過ぎている、とも言いたくなるはずです。例えば『真理とディスクール 〜パレーシア講義〜』の冒頭近く(p12)では二種類のパレーシアがあったことが紹介され、貶めた意味でも使われることがあると指摘されているからです。パレーシアは、その悪い意味で、思ったことを何でも口にするという「お喋り」にちかいニュアンスをもつこともあったと、その本の初めに言われているのです。そして、『真理の勇気』p14でも次のようにはっきり言われている。

ミシェル・フーコー『真理の勇気』 慎改康之訳 筑摩書房p14
しかし、ただちにはっきりさせておかねばならないのは、このパレーシアという語が、二つの意味で用いられうるということです。私が思うに、アリストパネスにおいて初めてこの語の悪い意味が見いだされ、次いでそれがキリスト教の文献に至るまで非常に一般的に見られるようになります。悪い意味で用いられるとき、パレーシアは、確かにすべてを語ることではあるけれど、ただし好き勝手なことを何でも語ること(頭に浮かんだこと、自分が弁護したい主張にとって有用でありうること、語る者を突き動かす情念ないし利害に役立ちうること、を好き勝手に何でも語ること)を意味します。パレーシアステースはそのとき、おしゃべりをやめない者、つまり、自制することのできない者、あるいはいずれにせよ自らの弁論を合理性の原則や真理の原則に準拠させることのできない者となり、そのような者として現れます。

『真理の勇気』p14

どうして、このようなパレーシアの悪い意味での使われ方を無視して、いい意味での使い方を取り上げるのでしょうか?思うに哲学が役に立つとしたら、ものごとの良い面だけに盲目的になってしまうところを避け、悪い面をも同程度に理解するという点だと私は、少しは思います。それにもかかわらず、パレーシアというのが、以下にもよい意味しかなかったかのように言うのは、哲学が悪いことの役に立っているように、私には思われます。そういう危機感は、哲学だけが固有に育てることのできるものであると思うのですが、どうでしょうか。

役に立つのがその程度であるとしたら、何故それを「哲学」というのか。

哲学を教えていていつも思いますけれど、難しいテキストを読んで、骨子をパッと理解して、そこで使われている概念を使いながら話をしたり文章を書いたりする訓練が、いわゆる仕事をする上で役に立たないわけないんですね。なぜそんなことも分からないのか。

https://bunshun.jp/articles/-/3228?page=4

「なぜそんなことも分からないのか」とはおそらくは反語であろうが、しかし、これに答えることは簡単であるように思われる。難しいテキストは哲学以外にも存在するからであり、それらの「難しいテキストを読んで、骨子をパッと理解して、そこで使われる概念を使いながら話をしたり文章を書いたりする訓練」は哲学でなくても、文学でも、科学でも、数学でも、法学でも、心理学でも、できる。とりわけ哲学の分野だけでしか、そんな訓練ができないわけがない。そんなことよりも、哲学をしていると、問題を見つけてしまう能力が開発され、問題を人々に伝えることがいわゆる仕事ではとても厄介なこととなり、仕事に役に立たない程度では済まされない。仕事では、そういうことが嫌われさえするからである。仕事をしながら、哲学はここではやってはいけない、という経験がないから、「なぜそんなことも分からないのか」という問いになるのでしょうが、哲学を押し殺しながら仕事している身としては、哲学が役に立たないことくらい、「なぜそんなことも分からないのか」と問いたくなります。

哲学のない時代の「哲学」はどうなのか?哲学を必要とする時代の「哲学」はもっとどうなのか?

今の時代だけでなく永遠に必要であろう徳だとか勇気だとかを、時代や民衆の必要に応じて切り売りできる時代がきたとは哲学にとってなんと幸福な時代でしょうか?

哲学のない時代の「哲学」は不幸だろうか?むしろ幸福なのではあるまいか?哲学を必要とする時代の「哲学」はもっと不幸だろうか?もっともっと幸福ではなのではありませんでしょうか?

ディオゲネスについて、ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』からの引用

ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝(中)』岩波文庫

 (第6巻 第2章)

ディオゲネスとプラトン

p131-133

(二五)  またあるとき、プラトンが贅沢なご馳走の並んだ食事の席で、オリーブの実にだけ手をつけたのを彼は目にして、「賢者であるあなたがシケリアへ渡航されたのは、まさにこういう料理が目あてであったのに、いまこうしてたくさんの料理が目の前に並んでいるときには、あなたがこれを味わおうとされないのはどうしたわけかね」と訊いた。そこでプラトン が、「いや、神々にかけて、ディオゲネスよ、あの地でも、ぼくはたいていの場合は、オリーブやそういったものを食べて過していたんだよ」と答えると、「それならなぜ、シュラクサイくんだりまで出かけて行く必要があったのかね。それとも、あの頃には、アッチカの土地にはオリーブはできなかったというわけかね」と彼は言い返したのであった。ただし、パボリノスは『歴史研究雑録集』のなかで、これはアリスティッポスの言ったことだとしている。 

 また別のとき、彼が乾し無花果を食べていたら、プラトンに出会ったので、「あなたに分け てあげてもいいよ」と言った。そこでプラトンがそれを取って食べると、「分けてあげるとは 言ったけれど、全部食べてもいいとは言わなかったよ」と彼は言ったのだった。

 (二六) ある日、プラトンが、ディオニュシオス(王) のところからやって来た友人たちを自分の 家に招待していたとき、ディオゲネスは敷いてあった絨緞を踏みつけて廻りながら、「プラトンの虚飾を踏みつけてやっているのだ」と言った。これに対してプラトンは、「ディオゲネスよ、君は見栄を張っていないと見せることによって、かえって、どれほど多くの見栄を人前にさらけ出していることか」と応じた。 ただし、ある人たちの伝えるところでは、ディオゲネスが言ったのは、「プラトンの見栄を踏みつけてやっているのだ」というのであったが、これに対してプラトンは、「いかにも、ディオゲネスよ、君はまた別の見栄でもってそうしているのだ」 と応じた、ということになっている。しかしながら、ソティオン が(『哲学者伝』の)第四巻のなかで述べているところによると、いまの言葉は、このキュニコス派の哲学者が(第三者に対 してではなく) プラトンその人に向かって直接に言ったのだということになっている。 

 ディオゲネスがあるとき、プラトンにぶどう酒を所望し、同時にまた乾し無花果もねだった。 そこでプラトンが酒甕をまるごと送ってやったら、「君は、二たす二はいくらかと聞かれた場合に、二十と答えるだろうか。それと同じで、君は所望されたものに応じて与えることもしな ければ、訊ねられたことに応じて答えることもしないのだ」というのが彼の返事であった。そ れでプラトンは彼のことを、とどまることを知らぬお喋りだとあざ笑ったのであった。 (二七) ギリシアのどこですぐれた(勇気のある)人たちを見かけたかと訊ねられたとき、「すぐ れた人たちはどこにも。だが、すぐれた子供たちなら、ラケダイモ ン(スパルタ)で見たよ」と 彼は答えた。 

不思議がるディオゲネス

 あるとき、彼が真剣な調子で話をしているのに、誰ひとり近づいて来ないので、彼は鼻歌ま じりにしゃべり始めた。すると、人びとが大勢集まってきたので、くだらぬお喋りには真剣に なって聞きに来るのに、真面目な話は軽蔑してのろのろとやって来るといって、彼はその人た 

ちを咎めた。 

 また、競走の際には、隣りの人を肘で突いたり足で蹴ったりして、人びとは互いに競い合う のに、立派な善い人間になることについては、誰ひとり競い合おうとする者はいないと彼は言 っていた。 

 また彼は、文献学者がオデュッセウスの落度はいろいろと探し求めているのに、自分自身の それには無知のままでいることを不思議がっていた。 

 さらに、音楽家がリュラ琴の絃は調子を合わせるのに、自分の魂の状態は不調和なままにし ていることに彼は驚いていた。

  (二八) さらにまた、数学者たち(天文学者でもある)が、太陽や月には眼を向けるけれど、自分の足下にある事柄は見のがしていることや、弁論家たちが正義について論ずるのにはきわめて熱心だけれども、これを少しも実行していないこと、いや、それだけでなく、お金好きの人たちがお金をけなしているくせに、これを過度にほしがっていることに、彼は驚いていた。 

 また、財産よりまさっているからという理由で正しい人たちを称賛しながら、他方では、 第大きな財を蓄えている人びとを羨んでいる連中を、彼は非難していた。 

 また、健康であるようにと神々に犠牲を捧げておきながら、まさにその犠牲式のさなかに、 健康に反するほどのご馳走を食べること、彼をいらだたせていたことであった。 

中指を突き出すディオゲネス

p138

 またあるとき、他国の人たちがデモステネスに会いたがっていると、彼は中指をつき出して 「ほら、これがアテナイ人たちを煽動している男だ」と言った。

白昼にランプに火をともすディオゲネス

p144

(四一) 彼は白昼にランプに火をともして、「ぼくは人間を探しているのだ」と言った。

明るい秘密

明るい秘密ということがある。通常、秘密は暗いものと考えられているが、それはひとが公にできない、他人に知られたくない事実を隠しているからである。隠されている秘密の事実は、それが事実として皆の前に明らかにされる なら、直ちに誰にでも明白な事実として隠れる術もなく白日のもとに露呈されるであろう。けれども明るい秘密とい うのは、事実としてはなんら隠れるところもなく公共の地平に晒され隈なく露呈されていながら、目の前にある事柄 に人びとが気がつかない、といういみでの秘密である。 

哲学が本来明るい秘密の探究であったことは、プラトン『ソピスト』254a8-10 「(ソピストがその棲む場所の暗さのゆえに捉え難いのに対して) 哲学者の方は、ほんとうに有るものをいつも言葉の働きを通して見てゆく側に身を寄せているので、今度はその場所の明るさゆえに、見極めることが決して容易ではない」参照。またヘラクレイトス『断片』1「(根拠を証す) 言葉は (いまここに、わたしが語り明かす通りに)いつでもこれとして有るのに、人びとは初めてそれを聞いた後も、聞く前と同様に、ちっとも理解しないままになっている。……(わたしはことを分けて話しているのに)ほかの人びとは、自分たちが眠りながら何をしたのか覚えていないと同様に、目を醒ましていながらも何をしているのか蛇っていない」も参照(1)。  早い話が、ソクラテスやキリストが現にわれわれの傍らに立ったとしても、ドストエフスキーの「大都問官たち」(『カラマゾフの兄弟』)と同様にわれわれには目の前のこの人が何であるか、どう取り扱ったらよいか、判断を絶するで あろう。しかし明るい秘密はなにもこうしたショッキングな例外の場合だけではない。これらの例でも、秘密をもたらしたのは、この人の人物としての特異性の問題よりも(むろん特異性の問題もそれはそれで論じられねばならない にしても)、むしろこの人が〈わたし〉にとって他人である、という、しごく当たり前の、どの個人に対してでも成立している関係なのである。

モイラ言語  井上忠 p 77 https://www.amazon.co.jp/dp/4130100548/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_OWLlFb7B4FNKX 

対話への誘い 2

承前 

批判したり同調したりするだけでなく、遠近を正確に見極めること

発表の題材はアキナスの「他者への無限責任」です。実は私は「他者への理解が根底の所で閉ざされているのは何故なのか。それにも関わらずどうしてそのような他者に対して責任を私が負わねばならないのか。」という問いをもっています。そこを中心に議論・対話をしたいのです。


というのも、私のこれまでの経験や性格から思うところがあり、やはり「他者」というものは考えれば考えるほど異様で、全く自分とは別の「意識存在」であり、無視することができず、何故かいつも自分に迫って来ている。そのような「絶対他者」の前で、自分はなすすべもなく、翻弄され、そしていかなる時でも「応答」をしなければいけない。これは一体どういうことなのか。…

助言をさせていただくなどおこがましい限りなのですが、以上の二つの段落で述べられようとしたことを、より一層明確に言語化して問いを提出できれば、大変素晴らしい対話ができるでしょう。そのうえで、私を含む参加者に、自分の問いを言葉を尽くして説明するのに、一つの問いに絞ることができれば、哲学的にとても有益になることと私は信じています。

「一層明確に言語化して問いを提出できれば」について付け加えます。他の参加者も、私も、ぜひとも聞きたいと思うのは次のことであるはずです。それは根尾井さんが「アキナスが言っていることと違う」と断定し批判したり、アキナスに同調して自分の問いを提出したりすることで終わることなく、アキナスが言っていることを気にかけながら、アキナスと自分の問いはどれほど近くて遠いのかを測定しようとしているか、ということです。アキナスの主張や用語を習得するのは凡庸な一般人には難しく、哲学書を読めるようになっただけで哲学をしているつもりになる愚かな知者たちはたくさんいますが、そんなのは愚の骨頂です。確かに、哲学を始めたばかりの頃は哲学書や哲学説を理解するのに手一杯であるとしても、自分で哲学をし続けるためには、それらの用語や論理に習熟するのは単なる手段の獲得に過ぎないのであって、それをもって、自分の問いを表現できるようにならねばなりません。自分の問いを表現できるようになって、ようやく道の半ばというくらいです。そのことはぜひ知っておいてもらいたい。自分の問いを表現したあとでも、まだまだ長い道を歩まねばなりませんが、哲学まがいの思想や哲学研究にならないためには、はじめから自分の問いを忘れない訓練をしなければなりません。このことを、私は、何度でも強調します。逆に言えば、たとえ哲学を初めに志したとしても、実に多くの人がその道中で自分固有の問いを忘れ脇道に逸れた挙句戻ってくることがない。私もまたその一人とならないよう、常に精進しているところです。

知的安全性(セーフティ)に対する正しい理解

林さんの言われたことから、最も大切であろうと感じたのは、議論が白熱したときに、信念や問いを貫き通したことがない私の自信のなさからくる「恐怖」が「相手に議論で勝とう」「ここは誤魔化しておこう」というものに容易に移行しないように、「私の問いは誤解されていないだろうか」と常に気に留めておくことを怠らないようにする、ということでした。

「他者に理解されない」ということは「恐怖」に直結するのではなく、逆に自分の問いを忌憚なくぶつけることができるために問いを再考できる「安心」ともなりうる。そのように林さんの言っていることを理解しました。実践できるようになるにはとても時間がかかりそうですけれど。とはいえ、そのように考えると「信念」をもって「自分の問い」にこだわることができそうな気もします。

この箇所を私が読む限り、根尾井さんは、哲学対話や哲学実践の分野でしばしば問題となる「知的安全性(インテレクチュアル・セーフティ)」について正しく理解している数少ない人の一人のように思われ、私は非常に嬉しく感じました。というのも哲学対話における「知的安全性」は哲学カフェなどを主催したり参加したりしている多くの人々に無自覚に誤解され続け、もはや手のつけられないことになっているからです。相手を否定せずに優しく問いかけるのが哲学対話であるというようなイメージは、こうした誤解の深さと広さを示すものです。

哲学の問いが論理と直知を通じてある特殊な理性にしか宿らないのは何故か

ディスコミュニケーションが起こる理由として、「哲学の問いが論理と直知を通じてある特殊な理性にしか宿らないことにある、というものです。」とおっしゃってましたが、ここの意味をもう少し詳しく教えていただけますでしょうか。

 誤解を恐れても言わねばならないのは、次のことかもしれません。
 まず、哲学の問いが論理を通じて理性に宿る、というのは容易に理解されるのではないでしょうか。一見何らの具体性も伴わない抽象的な言語を用いながら、こと細かに事象を描写したりあらゆる反論に対して詳細に批判や検討をしながら再反論したり、といったことを通じて哲学の問いは理解される。つまり緻密な言語と論理でもって問いを表現するという、言語や論の運びに対する執念深さがないと哲学の問いは実らない。たとえば「死とは何か?」という同じ問いを、文学では詩的比喩を用いて、宗教では救済を求める信仰心でもって、表現するわけですが、哲学はそのどれとも違って、厳密な思考によってあらゆる可能性を尽くして検討し議論する。文学も宗教も同じように理性は必要でしょうが、哲学に用いられる理性は抽象的でありながらも緻密で厳格という点が特殊なのです。

 しかしながら、厳密な論理でもって理詰めで誰にでも分かってもらえるのが哲学的問いなのかと言えば、最終的にはそうではない。哲学の問いはまことに驚きから始まり、終わりには言語を絶する謎が待っているからです。ここでも再び「死とは何か」との問いを取り上げると、その問いを問う哲学者にとっては、子どものときから片時も頭を離れず身に染み付いたものであって直に知っているもので、それにはいかなる理詰めの説得など必要ありません。さらに、死を言語によって知り尽くしたとしても死の間際まで死が真に何であるかは謎であることなど始めから知っている。これが哲学の問いが直知(nous)を通じて理性に宿る、ということで私が言わんとしたことです。このように、有無を言わさぬ驚くべき謎を捉えて離さない理性が、特殊であるのはいうまでもないことでしょう。

 理詰めで考えることに慣れた人、たとえば科学者が、ディスコミュニケーションがなぜ起こるのかを理解するには、哲学の問いが驚きから始まるというのを知らねばなりません。逆に芸術家や宗教家のように直観の強い人は、哲学の問いが言語と論理によってはじめて正確にとらえうることを知ってもらう必要があるでしょう。この二つを哲学の問いに対する論理的理解と直観的理解と言うことができるでしょうが、哲学の問いを持つにはどちらか一つだけではダメで、だからといってどちらとも揃えているだけで済むというでもなく、二つを合わせ持ちながら精確に使い分けることができなければならない。そのような能力を生得的に持ち合わせていることが稀であるのは想像に難くないでしょうが、さらにその上、その能力を常に発揮し続ける実践を怠ってはならない。とすれば、このことがある特殊な理性にしか起こらないのは想像に難くないのではないでしょうか。

 ディスコミュニケーションが起こる原因の一つは、議題に挙がっている哲学的問いに対して、先に述べた二つの理解が交錯することにあることは分かってもらえるのではないかと思います。つまり、ある人に対しては直観的理解が必要なのに論理的理解を促す説明を与えてしまっている。あるいは、論理的理解を欲している人に対して直観的理解を与える事例を示す。このような交錯が起こってはいるのですが、その交錯を見極めるに際して再び直感的理解と論理的理解とが生じているので、安易に着地点を求めたり、妥協したりしてはいけない、というわけです。

 おっと、ほんの一文を説明するのに回りくどい説明を与えていることに今更気づきました。こうした饒舌は非難さるべきもので、お返事をするのに遅くなる理由にもなってしまっていたのでした。その点を反省しつつ、まずは上のように述べることでお返事をとりあえずは差し上げたいと思います。